プチ小説「月に寄せて10」
いつものように上野は工場の入口で守衛に挨拶すると守衛は、
「上野さん、今日は、スーツなんか着て、誰かとデートですか」
とにこにこしながら言った。上野は、確かにそうだがあなたがなぜそのことを知っているのと
思わずつぶやいてしまった。
「なにね、さっきそう1時間程前に入って行った女の人が、いつもと違ってめかし込んでいる
ので、デートですかと言ったら、「そうなの」と言っていたもんだから」
「守衛さんも意地悪だな」
「ははは、稲田さんはいつも地味なかっこうをしているのに、見違えてしまいました。「あなた、
どなたですか」と言ってしまうくらいに」
上野が事務所に入って来ると稲田が入口のところにいて、にっこり笑いながら声を掛けた。
「こんにちは。今日はほんとに楽しみにしているのよ。だって、半年も待ちぼうけだったんですもの。
でも、お互い、仕事があって生活できるんだから、そこのところは辛抱しないとね」
「そんなに前から、ぼくのことを...」
「そうよ。だから今夜は楽しい夜を過ごさせてね」
「うん。それにしても、見違えるようだよ。でも、とりあえずは今日の仕事をやっつけてしまうことにしよう。
そうして夕方仕事が終わってから、今晩どうするか決めることにしよう。きっと今考え出したら、
いくつもの選択肢の中からどれを選べば良いのかあれこれ考えて時が経つのも忘れてしまうだろうから。
まあ、それも楽しいんだろうけど」
「そうよ。それが一番楽しいのよ。なのにそれより優先させないといけないのがあるから...。でも、仕事、
仕事はきちんとやらなきゃね。紅茶を入れてくるわ」
「ありがとう」
仕事をしている間のふたりは寡黙で事務的なやりとりだったが、引き継ぎをすべて終えた時、ふたりはお互いに
見つめ合って笑顔を交わした。
「もう少し早く仕事を終えるつもりだったけれど、結局、夕方になってしまった。でも、どうしても出掛ける前に
話しておきたいことがあるんだけれど...」
「何かしら。急ぐこと?お食事をしながらでよければ、すぐに出掛けたいんだけれど」
「駄目なんだ、今ここで話しておきたいんだ」
「......」