プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生75」
元日の朝、小川とその家族は出町柳駅でアユミとその夫と待ち合わせて下鴨神社に行くことにした。
糺の森に続く通路を歩いている時に小川は秋子に言った。
「いつ来ても糺の森は 荘厳な雰囲気に満ちている。正面に神社の朱色の建物が見えるが、まわりの緑や
枯れ木と対照的で際立って見える。目的を失ったものが、ここに来れば進むべき道を諭されるようだ。
そんなところだから、多くの人の憩いの場となっているんだろう。ぼくもここに来ることで何度癒された
ことか」
「おとうさん、あの朱色の建物までとても遠いので、森に入る前にそこのおでん屋さんかやきそば屋さんに
寄って行かない。そうしないと桃香も私も電池が切れてしまって、足が動かなくなってしまいそう」
「わかった、わかった。それじゃー、ここで休憩にしよう。アユミさんたちはどうしますか」
「私は娘さんたちと同じものをいただきましょう。それにしてもここは素敵なところだわ。京都の中心部から
そんなに遠くないところなのに、東北地方にある山岳信仰の社寺のようだわ」
小川たちは下鴨神社のお参りをすませると下鴨本通に出てタクシーを拾い北野天満宮へと向かった。
「ここは学問の神様と言われるところだから、深美も桃香も将来お世話になるかもしれない。アユミさん、
さっきお願いしていたこと...」
「ええ、ここで娘さんたちと1時間程時間をつぶしてほしいということね。承知したわ。それじゃあ、1時間後に
鳥居の下で会いましょう」
「じゃあ、秋子さん、思い出の場所に行きましょうか」
「ああ、そう言えば、上七軒のバス停はここから一つ先だったわね」
小川が言ったとおり生姜煎餅を購入した煎餅屋は正月休みだったが、ふたりは公園のベンチに腰掛けて昔を
懐かしんだ。
「秋子さんは信じてくれると思うけれど、あそこの木の上で2分の1のサイズになったディケンズ先生が、
自分の口元を 指差し「プルーンズ、プリズム」と言っていたんだ」
「小川さんにとっては懐かしい場所かもしれないけれど、ふたりで生姜煎餅を食べたことくらいしか覚えていないわ」
「ぼくはいつも大人しい秋子さんが感情を表に出してくれたので、思い出深いのさ。ここで秋子さんが怒り出さ
なかったら、その後ふたりが親密になることはなかったかもしれない。この人を失いたくないという感情が
芽生えたので、頻繁に東京から訪れるようになったんだと思う」
「そう、それなら私も一生忘れないようにするわ」
小川がふと上方に目をやるといつかそうしていたようにディケンズ先生が自分の口元を指差し、プルーンズ、プリズム
と言ってから、笑顔で手を振った。
註)2011年1月2日に訪ねると糺の森の下鴨神社寄りに20軒ほど露天がありましたが、糺の森の入口近辺には
露店はありませんでした。