プチ小説「月に寄せて15」

上野と稲田は京都駅で待ち合わせて、市バスに乗り大徳寺に向かった。大徳寺では2つの塔頭、
高桐院と龍源院を訪れた。そのあと嵐山に出て、天龍寺と常寂光寺を訪ね、阪急電車で河原町に
出た。稲田が少し喫茶店で話がしたいと言ったので、四条通沿いの喫茶店に入ることにした。
「このあと君が行きたいと言っていた清水寺に行くけど、少し強行軍だったかな」
「そんなことないわ。上野さんがいろいろ調べてくれたおかげで、どれもがすばらしかったわ。
 ところで、この前に話していたことを少し話していいかしら」
「少しと言わずに気のすむまで話してもいいけど、でももう午後3時だから、少しの方がいいかな」
「じゃあ話すけど、今日の私、いつもと違うと思ったところはない」
「会った時から訊きたかったんだけど、その横長の鞄には何が入ってるの」
「じゃあ、開いてみるわね。じゃーん、これはクラリネットでした」
「それが何か関係あるの」
「実は上野さんにもクラリネットを覚えてもらおうと思って」
「えーっ、ぼくは楽器をやったことはないよー。それにリコーダーはぜんぜんできなかったし」
「心配しないで、何もあなたに毎日最低1時間練習しなさいというつもりはないんだから」
「それじゃあ、30分でいいの」
「そうではなくて、私が教えて上げたことを少しずつ覚えてもらって、1年先か10年先かは
 わからないけど、ふたりで何か演奏できればいいなと思うの」
「でも、ぼくはクラリネットを持っていないし...」
「その心配は無用よ。ここにあるのは私がクラリネットを習い始めた頃に使っていたものなの。
 高価なものではないけれど、きちんと吹けばきれいな音が出るのよ。これを使って練習して。
 そこにカラオケ喫茶があったでしょ。そこで少し吹いてみましょうか」

「どう、ロンドンデリーの歌という曲だけど。これくらいなら、吹けるんじゃないかしら」
「とてもとても、それにクラリネットの音を出すのはサックスより難しいと言うじゃないか」
「私がこのことを提案したのは、上野さんが目的を持ってこちらに来てくれるようにしたかった
 からなの。今までは仕事の引き継ぎだったけど、それもなくなったし。今日みたいにいろいろ
 案内してもらえるのはうれしいけれど、上野さんの負担が大きすぎると思うの。クラリネットの
 個人レッスンならカラオケ喫茶の一室を借りてでもできるから、お金も余り掛からない。
 それで上野さんが楽器演奏に興味を持ってくれるのなら、話題も広がるし」
「よし、わかった。君の言う通りにするけど。今、少しでも教えてもらっておこうかな」
「いいえ、今日はこれから清水寺に行っておひらき。次回はカラオケ喫茶に直行ということに
 しましょう」
「それじゃあ、出ようか」