プチ小説「月に寄せて18」
上野と稲田は、その日も四条河原町近くのカラオケ喫茶を利用しようと高島屋前で待ち合わせた。
後からやってきた稲田は、後ろから上野にそっと近づくと「お待たせっ」と肩を叩いた。
「やあ、稲田さん、今日はどんなことを教えてもらうのかな。そろそろ何か曲を吹いてみたくなった
んだけど」
「ちょうどよかったわ。実は...。でも、やっぱり曲目はカラオケ喫茶に入ってから言うわ」
「じゃあ、期待して待つことにしよう」
カラオケ喫茶を利用できることがわかり、ふたりは部屋に入るとすぐにクラリネットを組み立てた。
「じゃあ、まずは先週勉強した低いミの音からソの音をゆっくりと吹いてみましょう。
少し深くくわえすぎているみたい。もう少し浅くしてみて。それから息が通りやすいように
背筋を伸ばして楽器の下の方はもう少し身体から離して、そうそんな感じで前にも言ったように
ベルから息が出るくらいの強い息で吹いてみて...。なかなかいい感じよ。上達が早いわね」
「ありがとう。それじゃー、そろそろ...。何を演奏するのかな」
「お待たせしました。それでは曲を吹いてみましょう。曲は、オーラ・リー、ラヴ・ミー・テンダー
とも言いますが、それを演奏しましょう。この曲は今まで習った運指だけで吹ける簡単な曲ですが、
心を込めて吹かれると聞いている人によい印象を与えることができると思います」
「先生、ちょっといいですか」
「何ですか、上野君」
「やはり心を込めて演奏するためには、歌詞を知りたいと思うのですが...」
「それは用意しなかったな...。それでは即興的に歌詞を付けてみることにします。ちょっと待ってね。
......。じゃあ、こんなのでどう。愛して甘く、やさしくずっと。私の生活を潤した君を愛す。
私たちの愛はまことの愛。すべての夢がかなえられた、ダーリン、そしてこれからは...」
「すてきだね、稲田さん」
そう言って、上野はそっと稲田の頬に口づけた。
「上野さん、ありがとう。でも今はしばらくこうしてふたりでクラリネットを楽しんでいる方が...」
「ごめんごめん、少し早とちりだったね」
そう言って、上野は顔を赤らめた。
ふたりが河原町通に出て駅に向かっていると、稲田がそれとなく呟いた。
「今日は帰っても、顔を洗わないようにするわ」
「うれしいことを言ってくれるね。でも、次に会えるまで1ヶ月待たなきゃならない。これからの
1ヶ月は今までよりずっと長いだろうなぁ」
「そうね、わたしもよ。でもクラリネットの練習はちゃんとしておいてね」