プチ小説「たこちゃんの紅潮」

レッド、ロホ、ロットというのは赤ということだけれど、夕映えの赤、というのは本当に美しい。
同様に若い女性が顔を赤らめるのも、ぼくは好きだ。どちらもそこに輝きが認められるからなのだが、
ぼくが顔を赤らめてもそこには自然の美しさや青春の輝きが認められるわけではないので、当然のこと
だが見向きもされない。それでも自意識過剰気味のぼくは周りの人がぼくのことを見ていると思って
幼い頃から行動して来た。特に授業で当てられた時や舞台に上がって何かをする時には、そういう意識が
あるから、人並み以上に緊張したり、手足が震えたり顔が赤くなったりした。しかし社会人になってからは
先生に当てられたり舞台に上がるようなことがなくなって、顔を赤らめることがなくなった。研修会で説明
したり発表することはあるが、それは何度も間違えないよう練習した上でみんなの前に立つわけだから、
緊張くらいはするけれど心臓がドキドキして手足がふるえ顔を真っ赤にすることはない。むしろ最近は
みんなから、あいつは心臓に毛が生えていると言われるくらいになってしまって、マイクで話すことが
まったく苦にならなくなった。若い女の子が発表する時に恥ずかしそうに顔を赤らめるのは、本人たちは
嫌だろうが、端から見ていると若さ故の至らなさがかえって見る者に新鮮さを思い起こさせ微笑ましくなる。
逆に若い人が上手くやると、かえって好感が持てないでいる。他に顔を赤らめるのは激怒した時があるが、
ぼくは本来温厚な性格なのでゆでだこのようになって怒ったことは一度もない。怒るということは
非常に体力がいることだし、自分の考えを押し通せるような一本気の人でなければできないことだと思う。
社会人である限りは周りの人たちと調和することを常に考えていなければならないわけだから、自分の怒りを
抑えて行動しなければならなくなることもある。大多数の人がそうでぼくもその中に入っていると思う。
駅前で客待ちをしているタクシー運転手は、このことをどう考えているのだろう。聞いてみようと思ったが、
あそこで商売敵の人とやり合っているぞ。「お前、そこに自分の車留めてええと思ってるんか。......。
なんやとー。......。お前、そこに自分の車留めてもええと思ってるんか。......。なんやとー。......。おまえ、
そこに」「お話の途中ですみません。少し話して、いいですか」「オウ エストイアサスオールデネス」
「とくに用があるのではないのですが」「ほんなら、口出さんといて。お前、そこに自分の車留めてええと
思ってるんか。......。なんやとー。......。お前、そこに自分の車留めてええと思ってるんか。......。なん
やとー」「あのー、もしもし」「はいはい、なんですか」「鼻田さんは、さっきから同じことばかり言って
いますが、何か...」「ああ、それはね。怒る時の言葉をいちいち考えているととっても疲れるから、
怒るときは、なんやと、お前、そこに自分の車留めてええと思ってるんかと言うことにしてるねん。まあ、
言葉の合理化ちゅーのかなー」そう言ってぼくをおいたまま、そばの喫茶店にトイレを借りに行った
のだった。ぶつぶつぶつ...。