プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生79」

小川は神田古書街をぶらついて何か掘り出し物を手に入れようと、JRお茶の水駅で下車した。
<ディケンズ先生の著作は読みかけのがあるし、今日は風光書房は行かずに、小宮山書店や東京堂書店に
 行ってみようかな>
そう思いながら、お茶の水橋口の改札を出て信号が変わるのを待った。ふと横を見ると、紳士が腕を前後に
振りながら立ったりしゃがんだりしているのが目に入った。
<あれ、アユミさんのご主人だ。トレーニングに没頭されているし少し恥ずかしいけど、知らない振りを
 するのも悪い気がするし、声を掛けてみよう>
「こんにちは」
「ややっ、小川さん、じゃないですか」
「ははは、そんなに驚いていただいて光栄です」
「いや、今の発言の最初は自分の失態に対してなんです」
「というと...」
「決して小川さんのせいではないのですが...。小川さんが突然声を掛けられたので、腰が砕けるようになって
 深くしゃがんでしまったのでした。それで...」
「それでどうされたんですか」
「ズボンを破いてしまいました。ぼくが油断したのがいけなかったのです」
「それにしても、そんなにぴったりとしたズボンをいつもはいているのですか」
「これも体力というか体型を維持するための工夫なんです。ぴっちりしたズボンをはいていると体重が
 増えたら体重計に乗らなくても太ったのがわかるし...。あっ、信号が変わった。急ぐので失礼します」
そう言って、アユミの夫はお尻のところに鞄を当てて恥ずかしそうに走り去った。

その夜、小川が眠りにつくとディケンズ先生が現れた。
「どうだね「大いなる遺産」は、面白くなって来たかな」
「ハヴィシャムさんの顧問弁護士もされていて、ロンドンに出て来た主人公ピップの世話をしているジャガーズさん
 という弁護士やピップの家庭教師をしているマシュー・ポケットの息子でピップの親友となったハーバート・ポケット
 の言動が気になります。ふたりは主人公が語るところによればそれぞれ敏腕で誰からも頼りにされている弁護士、
 無二の親友ということになっていますが、本当のところはどうなんでしょうね」
「「大いなる遺産」のような1人称の小説、つまり主人公の視点でしか登場人物のことを語れない場合には、
 作者が意見を述べにくくてもどかしく感じることもあるが、客観的な事実を並べて行けば、主人公が最後まで
 気付かなくても、読者はあることに気が付くと言うふうにすることもできるんだよ」
「主人公がわからなくて、読んだ人がわかるのですか...。ふーん」