プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生81」
小川はいつもの喫茶店で「大いなる遺産」を読んでいたが、第54章のはじめのところでその情景描写の
素晴らしさに思わずうなった。
<第54章のピップたち(他は友人のハーバートとスタートップと脱走囚のプロヴィスが乗っている)を乗せたボートが
テムズ川をのぼって行くところの描写は、自分が周りの景色を見ながらボートを漕いでいるような気にさせる。
プロヴィスを海外に逃亡させ、ピップが引き続きプロヴィスから彼の財産を受け取ることができるようにするためだが、
この頃にはピップとプロヴィス二人の間には友情か親子の愛情のようなものが芽生えていたのかもしれない。火炎に
つつまれたハヴィシャムさんを救おうとして危険を顧みずにハヴィシャムさんを抱きかかえて大やけどをしたり、
オーリックという悪人に瀕死の状態にされたりしているのにもかかわらず、プロヴィスを何とか安全な海外に自分で
連れて行こうとしている。怠惰で放蕩息子のような生活をしていたのに、何という変わりようだ。プロヴィスは自ら
自分の不幸な人生をピップに語っており、ピップに自分の財産を与えているのは人の役に立ちたいという純粋な気持ちから
といったことを言っている。さらにプロヴィスは自分がお金を送ることで「上等の紳士」となろうとしているピップに
一目会いたいと死刑になる危険も顧みずニュー・サウス・ウエールズ(オーストラリア)から戻って来ている。
そんなプロヴィスのピップのことを思う素朴な感情が、お金の亡者のようになったピップを変えたのかもしれない。
また、ジョーが自分のもとを(一時的なものであろうが)離れて行った寂しさから、ピップはプロヴィスに代替的なものを
求めたのかもしれない。ああ、もうこんな時間か。残り100ページを切ると物語が急展開して面白くなって行くのだが、
終わりが近いことを考えるともう登場人物たちとお別れも近いと思い、少し寂しくなる。もう、ピップやジョーとも
お別れなんだな。さあ、今日は午後10時まで頑張るとするか>
午後10時を過ぎて小川が自宅に帰ると、娘たちも起きていて玄関で靴を脱いでいる小川のところにやって来た。
「おとうさん、今度の日曜日にアユミ先生とおかあさんの演奏会があるんだけど、前のおかあさんのコンサートの時に
おかあさんが言っていたようだけど、いろいろな仕掛けがあって、おとうさんの口が開いて塞がらなくなったり、
腰が抜けて立てなくなるような楽しいコンサートにするから、期待していてね」
「わたしはちがうの。だって、おとうさんとおかあさんの大切な日だから、どきどきするようなことは...」
「ははは、おとうさんは、少々のことでは動じないさ。アユミ先生に鍛えてもらっているから。とにかく5年先、10年先に
振り返ってみても心に余韻が残っているようなそんな演奏会であってくれたらいいな」
「おかあさんも司会と演奏頑張るから、深美も桃香もおかあさんが教えたことをちゃんとやってね」
「はーい、了解しました」