プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生82」
小川はいつもの喫茶店で、「大いなる遺産」の第55章を読み終えて一息ついた。
<それにしても、このウェミックというジャガーズさんの事務所の書記は興味深い人物だ。ピップがロンドンに
出て来てジャガーズさんの事務所を訪ね、彼が事務所内の案内をした時には特段変わったところは見られなかった
のだが、ウォルワースにある自宅にピップを招待した時の彼の言動は面白い。「小さな城」と彼が称する自宅には大砲が
備え付けられグリニッジ標準時間9時に鳴らされる。父親との会話も楽しいし、質素な夕食のようだが、その次の章の
ジャガーズさんの家での晩餐よりピップはずっと楽しそうだ。といっても事務所でのウェミックは無愛想で、口元はいつも
郵便ポストのように固く結ばれている。ピップが放蕩にふけりプロヴィスが亡くなって、ジャガーズさんの事務所との縁も
なくなろうとする時に、ウェミックはピップを自分の結婚式に呼んだのだった。招待状を送るというのではなく、今度
休暇を取るので散歩につき合ってほしいと言ってピップを自宅に来させる。ウェミックの城にピップが訪ねるとウェミックは、
腹ごしらえをした後、釣り竿を持ってピップと共に出発した。教会の前を通るとウェミックは、「おやおや、あそこに教会がある」
「ひとつ、入ってみましょうや」と言い出す。教会に入ると父親と婚約者が待っていて、彼らが式場に入って来るとウェミックは、
「おや、スキフィンズさんだ。ひとつ結婚式を挙げますか」と言う。さらに執事と牧師が現れると、チョッキのポケットから
これもまた偶然を装いながら「おや、ここに指輪があったぞ」と言って結婚式を進めて行く。結婚式を挙げ終えたウィミックは
ピップに、「どうでしょう、これが結婚式の集まりだってことが、だれにわかりましょうかね」と言って、釣り竿を肩にかつぎ、
勝ち誇ったように言う。こんな常識はずれだが端から見ていると楽しい結婚式を想像するのも、フィクションの世界ならではだと
思う。ウェミックという50過ぎの一風変わった人物が考えたことなので、違和感なく受け入れることができる。登場人物ひとり
ひとりを生き生きと描くだけでなく、その人物の行動は一貫性があり説得力がある。ぼくも将来小説を書くとしたら...。いけない、
もうこんな時間だ>
そう言って、残りのレモンティーを飲み干すと支払いを済ませて店を出た。
午後8時過ぎに小川が自宅に帰って来ると、家に鍵がかかっていた。中に入り、食卓の上を見ると広告紙に裏側に、「アユミさんの
ところにいます。夕食は、カレーを食べて下さい」と書かれてあった。小川は、
「いよいよ、明後日が本番だから熱が入って来たようだ。明日はきっと1日中、3人一緒に練習をするだろうから、秘密厳守の練習の
邪魔にならないように朝から出掛けよう。そうだ、喫茶店で「大いなる遺産」を読み終えたら、公立図書館に行ってみよう。
もしかしたら、古本屋にない本を手にすることができるかもしれないから」
そう言うと、小川は夕刊を開いてコラムを読み始めた。