プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生83」

小川は、「大いなる遺産」を読み終えるとその余韻に浸るためにやや上方を見つめながらいくつかの場面を
思い出していたが、隣の席に客がやってきたので、本に目線を戻した。
<いつもディケンズ先生の小説を読み終えると思うのだが、愛着のある登場人物との別れがとても寂しい。
 特に「大いなる遺産」のピップやジョーは、他の小説の登場人物より抜きん出ている。でも敢えて言うなら、
 「ピクウィック・クラブ」のピクウィック氏、「クリスマス・キャロル」のスクルージ、「荒涼館」の
 エスタ・サマソン、「リトル・ドリット」のアーサー・クレナム、「我らが共通の友(互いの友)」の
 ボッフィン氏なんかはぼくにとって愛着を感じる人物たちで50才を過ぎてからもう一度彼らと会うために
 初めからその物語を読んでみたいと思っている。今回、この小説を読んで感じたのは、20才の頃に一度
 読んだようだが、充分理解できてないだけでなくかなり端折って読んでいたということだ。このような
 恒久の名作は読むたびにすばらしい発見があるのだから、あと1回と言わずピップやジョーに会いたくなったら、
 すぐに読むことにしよう。そう言えば、ディケンズ先生は、主人公が最後まで気付かなくても、読者はあることに
 気が付くというふうにすることもできるんだと言われていたが、もしかしたら、ピップとエステラの恋愛の
 ことを言われているのかもしれない。第59章(最終章)でピップは、2回の不幸な結婚を経て今の夫とは
 別居中のエステラと旧ハヴィシャム邸の庭で偶然出会う。二人は近況報告をし合い、お互いに、「今でも
 友だち」であることを確認し合う。ぼくは今まで、この直接話法の「今でも友だち」「いつまでも友だち」
 という箇所をそのまま捉えて、二人はこれからも友だちと考えていたのだが、今回、日高八郎訳を読んで
 みると、最後のところが、「月が静かに照らし出す広がりのなかには、エステラとの再度の別離を暗示する
 影とては、何ひとつ見あたるものはなかったのであった」とあり、さらに二人は、今までそのようなことを
 したことがなかったのに、手を取って共々廃墟を出たのだから、二人がこの後、一緒になるというハッピー
 エンドと考えるのも的外れではないと思う。もちろんそれは読者の想像の産物にすぎないので、会話から判断
 すれば、「ふたりは友だちのまま」なのだろうが...。まあ、人それぞれの考え方によるのだが、ディケンズ
 先生はどのように考えておられるのだろう。もうお昼か、近くの食堂で食事を済ませて、昼からは家の近くの
 公立図書館に行くとしよう>

その夜、小川が眠りにつくと、ディケンズ先生が夢の中に現れた。
「小川君、どうだったかね、「大いなる遺産」は」
「先生の小説の中でも、最も優れたものだと思います。これからも機会があれば、読み直してみたいと思います。
 ところで先生が言われていた...」
「そのことなら、小説を読むというのは単に活字を追うということではなく、想像力を精一杯働かせて楽しむ
 ということなので、百人がその小説を読めば百通りの解釈(読み方)が成立すると考えるのは、的外れな
 考え方ではないと思うとだけ言っておこう」