プチ小説「耳に馴染んだ懐かしい音5」

2月に発表会があるから来てねと森下さんのおばちゃんに頼まれていた二郎は、その当日午後6時前に
会場の四条烏丸のシルクホールに着いた。二郎は会場に着き受付を済ませると、森下さんのおばちゃんを捜した。
「受付の人の話だと20分程遅れているようだから、おばちゃんの出番まで20分余りというところかな。
 多分、そろそろ観客席からチューニングルームへ移動するところだろう。あっ、おばちゃんがやって来た。
 おばちゃん、ここ、ここだよ」
おばちゃんは二郎のことに気が付いたようだったが、なにやら複雑な表情をしていた。二郎は駆寄ると、
どうかしたのと尋ねた。
「あら、二郎君、来てくれてほんとにうれしいわ。でも...」
いつも陽気で明るくて率直なおばちゃんが言葉を濁すのを見て、もう一度同じことを尋ねた。
「そうねー、たとえば、二郎君が3人で何かを演奏することになっていたのが、インフルエンザで2人が
 病欠になって1人でしないといけなくなったらどうする。しかも3曲目は私たちのパートが主旋律を
 吹くことになっているの」
「そうか...、いいことがある。聞いて、おばちゃん。おばちゃんは、今朝も朝からずっとこれから演奏する
 曲目の練習をしていたのだと思う。そして満足できるまで練習してから、会場に向かった、そうでしょ?」
「ええ、そうよ」
「それなら、おばちゃんはこれ以上することは何もないんだから、あとは演奏に没頭すればいいだけじゃないか。
 結果は結果、自分が一所懸命に演奏した結果が悪くても、それが今できる精一杯のことだから恥じることはない。
 あとは指がつらないように曲の合間にグーパーをしてみたり、たまにリードに下唇をつけたりしてリラックスして
 演奏すれば、きっとうまくいくと思うよ」
「どうもありがとう」

演奏を無事終えたおばちゃんはしばらく共演した人たちと笑顔で会話していたが、二郎の姿を見ると話を切り上げて
二郎のところにやって来た。
「あの時あなたの話を聞いて、我に帰った気がするわ。ありがとう。それにあなたは人を鼓舞するのが上手ね。
 あなたがいなかったら、おばさんはどうなっていたか...」
「いえいえ、その時はまた別の救いがきっとやってきますよ。だって、自助努力している人には万一の時に救いの手が
 差し伸べられます。ぼくがいなくてもきっと他の人が...」
「二郎君、そんなこといつ習ったの。おばさん、そんな話を聞くのも好きだから、今度ゆっくり話して聞かせて」
「......」