プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生85」

秋子やアユミたちのコンサートは午後6時からだった。リハーサルのために先に会場に行く
秋子と娘たちを見送った後小川は炬燵に入ってテレビを見ていた。テーブルに置かれてある
コンサートのチラシを見ると、小川は呟いた。
「結局、今日のコンサートでどんなことをするかは、教えてもらえなかったな。ヒントが欲しいと
 言ったら、このチラシをくれた。前半は秋子さんとアユミさんがクラリネットとピアノで
 小品を演奏するというのはよくわかるけど、後半がアユミ・クインテットによる、バッハ、
 ラフマニノフ、ディーリアスなどの演奏と書かれてある。これでは曲目も、誰がどんな楽器を
 演奏するかわからない。あっと言わせたいという気持ちはわかるけど、そこまで凝らなくても。
 ぼくのために、ぼくの好きなクラシック音楽を演奏してくれるというだけで十分なんだけどなぁ。
 もうこんな時間か、そろそろ出掛けるとするか」

小川が会場に着くと、秋子とアユミ夫婦は会場作りをしていた。小川はマスターに、今日は客に
コーヒーにブランデーを入れるかどうか尋ねないようにして、店内に酒類を一切置かないように
してほしいと頼もうとしたが、ブランデー入りコーヒーを楽しみにしてヴィオロンにやって来る
人も中にはいるかもしれないし、アユミが主役のコンサートで、自ら自制心を失ってしまうと知り
ながら、酒を飲んでしまうとは思えなかったので、マスターに話し掛けることはしなかった。
小川が時計を見ると開演10分前だった。やがて扉が開かれ、会場を待っていた10名程の人
と共に小川は店内に入った。

小川が注文したコーヒーが目の前のテーブルに置かれるとすぐに、コンサートは始まった。
司会をするのはアユミの夫のようだった。
「本日はたくさんの方にお集りいただき、本当に有難いことだと思っています。これから
 皆様にお聞きいただくコンサートは2つの家族が合同で行うもので、この日のためにみんなで
 一所懸命練習してきました。前半はクラリネットとピアノによるみなさんがよくご存知の曲を
 お聞きいただきましょう。曲目は、ユモレスク、ダッタン人の踊り、G線上のアリア、
 タイスの瞑想曲、トロイメライ...それから日本の歌から...以上ごゆっくりどうぞ」
3曲に1曲はクラリネットの独奏だったので、ピアノを引かない時はアユミはとなりにある
テーブルの上に置かれてあるコーヒ−をすすっていた。子供たちは出演が後半なので退屈そうに
していたが、演奏が始まって40分程して次女の桃香が透明の香水壜のようなものを持って
アユミの席に行くのが見えた。