プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生86」

桃香はブランデーが入った壜を勢いよく振ってアユミのコーヒーカップにたっぷりとブランデーを
入れると、ひとりごとを言った。
「わたし、前からこれがやりたかったの。何度かおとうさんとここに来て、おとうさんのコーヒーカップに
 香水の壜のようなものからお茶のような色をした液体が振りかけられるのを見ていたの。おとうさんは
 いつもそれを美味しそうに飲んでいたわ。きっとアユミ先生だって」
桃香はブランデーが入った壜を元のところに戻すと、再び姉の隣に座って秋子のクラリネット演奏を聴いた。
秋子がクラリネットの独奏を始めた時、アユミはコーヒーカップを手に取り、コーヒーがわずかしか残って
いないと思って一気に残りを飲み干した。

<あら、アユミさんの様子が変だわ。ピアノを打楽器のように叩いているわ>
一緒に演奏していた秋子はそのことが誰より早くわかったが、曲が終わってアユミの夫を見ると夫もアユミの
様子がおかしいことを身振り手振りで秋子に知らせた。夫は機転を利かせて秋子の横に立って耳元で囁いた。
「アユミの様子がおかしいです。どうやらアルコールを飲んでしまったようです。これからの3曲はクラリネット
 独奏で頑張ってくれませんか。後半までには正気を取り戻させますから。後半はピアノがないと演奏が
 成り立ちませんから」
そう言うと、夫はアユミをとりあえず外へ連れ出そうとした。夫はアユミが繰り出す、ジャイアント馬場の
ような水平チョップに何度も上半身をのけ反らせたが、一瞬の隙を見つけて胴に手を巻き付け頭をつけて
そのまま店の外にアユミを押し出した。しばらくすると小川もそこにやって来た。
「このままでは、後半の演奏は難しいですね。でも以前、アユミさんは生姜煎餅に熱いお茶で正気に戻った
 ことがありました。私はもしもの場合にと、金沢から柴舟を通信販売で取り寄せておきました。それから
 煎茶もポットに入れて持って来ています。ところで、アユミさん、生姜煎餅なら金沢の柴舟だね」
「そ、そうよね、でも、私どうしたのかしら」
そう言って、アユミは胴のところに抱きついていた夫の鳩尾にパンチを入れた。

アユミの夫はしばらくその場にしゃがみ込んで言葉を発することができなかったが、前半の演奏を終えた
秋子がその場にやって来ると立ち上がって話し掛けた。
「どうやら、後半は予定通りにできそうだ。ぼくもこの日のために一所懸命みんなとやってきたのだから。
 それにこの機会に小川さんがぼくに対してよい印象を残してもらえたら、ぼくの音楽の才能を理解して
 もらえたら...」
「でも、小川さんはマニアックな人ではないから、無理だと思うな」