プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生87」

小川が席に戻り注文した2杯目のコーヒーがテーブルに置かれると、アユミの夫の話が始まった。
「みなさん、前半、少しお騒がせしましたが、後半は純粋に音楽を楽しんでいただけると自負し
 ています。私は音大で作曲と声楽を学んだので、機会があれば私の音楽を皆さんの前で披露したいと
 考えていました。話は遡りますが、私が浪人生の頃、高校時代に音楽を教えてもらった先生が
 市民会館でモーツァルトの魔笛をピアノ伴奏で上演するという話があり、非常に興味を持って
 そのオペラの演奏会に出掛けたものでした。1台のピアノはオーケストラに匹敵するとよく言われ
 ます。抜粋されたものでしたが、十分に楽しい演奏会でした。私もそれに似たようなことをやって、
 皆さんにクラシック音楽に対する興味を持っていただけたらと思いました。ここでオペラの抜粋をする
 のは難しいので、本日はピアノとクラリネットそれから男性1人と子供2人の演奏でバッハの
 カンタータ第140番「目覚めよ、とわれらに呼ばわる物見らの声」をお聞きいただきます」

バッハのカンタータの演奏が終わる頃に小川は、アユミの夫に尊敬のまなざしを注いだ。
<それにしても、よく考えたものだ。ピアノとクラリネットで奏でられるバッハの旋律は斬新だし、
 娘たちも丸暗記したドイツ語を間違えないで歌っている。これは偏に指導が良いからだろう。
 やはり、最後はみんなでグロリアで始まるコラールを演奏している。すばらしいなぁ。でも、
 次は何をするのだろう>
「どうもありがとうございます。次は、私のもうひとつの声、裏声でラフマニノフのヴォカリーズを
 お聞きいただきましょう。それだけでは、お怒りになられる恐れもありますので、その後の
 繰り返しは、クラリネットの演奏で楽しんでいただきます。それに引き続きまして、ディーリアス
 の劇付随音楽「アブ・ハッサン」よりセレナードをこれも少し裏返った声でお聞きいただきましょう」

「どうもご清聴ありがとうございました。本日のコンサートはわれわれ出演者ばかりが楽しんだ
 コンサートと言われないように、以前にもここで好評を博した、「ロンドンデリー・エア」「グリーン
 スリーブス」「春の日の花と輝く」をクラリネットとピアノの演奏でお聞きいただき、お開きと
 させていただきたいと思います。今日はどうもありがとうございました」

その夜、小川が眠りにつくとディケンズ先生が夢の中に現れた。
「秋子さんはいつもながら心配りが行き届いている。以前私が言ったことを覚えていて、私の好きな曲を
 演奏してくれた。ま、楽しい演奏会を君のためにしてくれたんだから、これからは君も家族のために
 もっと頑張らないとだめだよ」
「そうですよね、今までよりももっと」