プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生92」

「ところで、この前のヴィオロンでの演奏会、楽しんでいただけましたか」
小川が呆気にとられて次になにを話してよいか分からない様子だったので、アユミの夫は助け舟を出した。
「そ、そうでした。秋子も娘たちも楽しそうでした。ぼくもクラシック音楽はよく聞くのですが、ピアノと
 クラリネットの伴奏でバッハのカンタータを演奏するという発想は編曲ができるからで、中学生までしか
 音楽を習わなかった私にとっては憧れを感じますね。何よりふたりの子供のパートのところは無理なく
 歌えるようにしていながら聞かせどころもある。演奏会の後、秋子が、クラリネットで主旋律を楽しく
 吹かせてもらえたと言っていましたが、私も客席にいてその気持ちが伝わってきました」
「そうですか、お褒めいただきありがとうございます。では、そのあとの...」
「そのあとなにかありましたっけ」
「そのー、わたしが、ラフマニノフのヴォカリーズとディーリアスのセレナーデを裏声で歌ったでしょう」
「あ、そうそう、あれね」
「そうですね、あれのことですよ」
「あれはねー、ないほうがよかった」
「がくっ」
「あっ、秋子と娘たちもやってきました。アユミさんが帰って来たら、茶話会にしましょうか」

秋子がお茶の用意をしていると二人の娘は父親に話し掛けた。
「おとうさん、もう一枚、生姜煎餅を食べていい」
「だめだよ、これはアユミさんに差し上げたものなんだから」
「だって、わたしこれを食べて、アユミ先生のようにピアノが引けて、それから...」
「それから、どうしたいんだい」
「ごしゅじんを一発でうちのめすようになりたいんだから」
「おいおい、そんなことをどこで習ったんだい。桃香もそう思っているのかい」
「わたしはちがうの。おかあさんのようにクラリネットがうまく吹けるようになりたい。でもそれまでに
 ごしゅじんをのけぞらせるような空手チョップをアユミ先生に教えてもらうの」
「アユミさんは音楽以外にもいろんなことを娘たちに教えてくれているんですね」
「小川さん、心配しなくていいわよ。娘さんたちは秋子の言うことをよく聞くから。私のような無茶は
 しないから」
「ふふふ、さあ、生姜煎餅だけだとさみしいと思ったので大福餅も買って来たのよ。だから、深美も桃香も
 今日のところは生姜煎餅はアユミさんに食べさせて上げてね」
「はーい」