プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生94」
小川は目覚めた後もしばらく、「バーナビー・ラッジ」「荒涼館」「リトル・ドリット」のページを
めくっていたが、ふと向かい側の席を見ると50才くらいの男性が小川を見て微笑んでいた。
小川はなぜいい大人の男性が理由もなしに笑っているのか訝った。そこで反対尋問のようなことはしない
だろうと思い、思い切って声を掛けてみた。
「失礼ですが、以前お会いしたことがあるのでしょうか。先程からあなたを見ているのですが、そのう、
違っていたら申し訳ないのですが、年上の方に失礼なことを言いたくないのですが...」
「あなたが言いたいことはわかりますよ。なんでお前はおれを見てそんなに笑っているのかというのが」
「ははは、だったら話が早いですね。どうしてなんですか」
「それはですね。そこにある本なんですが、確か、ディケンズの本ですよね」
「そうですが、これがなにか」
「やはりそうですか、それならあなたがよろしければ、握手をさせていただいてよろしいですか」
「ということはあなたも、ディケンズ・ファンなのですか」
「そうでもあるのですが、わたしはもっと幅広くて、17世紀以降の世界の文学の興味のあるものを
読んでいます。でも、やはりディケンズの残したものには他の作家の追随を許さないなにかがありますね」
「それはなんでしょうか」
「ディケンズ自身が生まれついた時から持っている人の良さ、善良さというか。ぼくは彼の本を読んでいると
愉快な内容の時には楽しい気分になるし、深刻な内容の時には襟を正して話をきちんと聞かなければ
という気持ちになるのです。まあ、ディケンズという作家は読者を正しい道に導いてくれると言うか...」
「確かにおっしゃる通りだとは思いますが、ディケンズの作品には善人ばかりが出て来るわけではないし。
「マーティン・チャズルウィット」の主人公のようなつまらない人間も出てきますよ」
「「マーティン・チャズルウィット」ですか。なかなか渋いですね。でも実のところはそれはまだ読んでいない
のですよ。ぼくたちの目の前にある3冊の本は、いずれも楽しく読ませてもらいました。あと「デイヴィッド・
コパフィールド」「大いなる遺産」なども楽しかったですね。けれどそれにまだ翻訳されていないものがいくつか
ありますし、読んだのは半分くらいでしょうか」
「それなら、近く初訳が出されるという噂を聞きますので、楽しみにされればよいと思います」
「それが本当なら、長年、原書の表紙を見て我慢していた、「ニコラス・ニクルビー」「ドンビー父子」が読める
ということですよね。それは凄いことですよね。百数十年の間全く手つかずだったことに果敢に挑戦するの
ですから...。でもぼくの情報網にはそういったうわさは引っかかっていないのですが...」
<まさか、ディケンズ先生が言われていたなんて言えないから、ここは何とか誤摩化さないといけないな>
「5年くらいはかかるかもしれないと言われていたのですが、それはもしかしたら10年になるかも...。それよりも
そこに原稿用紙がありますが、何か書かれるのですか」
「ああ、これですか。実はですね、ぼくは自称、アマチュアの小説研究家なのです」