プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生96」
小川は50才の男性が熱く語るのを聞いて、それだけ打ち込める趣味があるのは羨ましくもあったが、
自分自身も、ディケンズ先生のおかげで西洋文学に興味が持てているのだと思うと、今更ながら
ディケンズ先生の恩恵を感ぜずにはおれなかった。
「それでは、「感情を表す助動詞の効果的な使い方」というのはどうでしょう」
相川は指をしめらせてしばらく大学ノートのページをあちこちめくっていたが、ようやくレクチャーの
内容が決まって、小川に話し掛けた。
「どうぞいつでも始めて下さい。ただ、申し訳ないのですが、30分でお願いしたいのです。積み残しは
次の機会に必ずお聞きしますので」
「わかりました。私もまだ人前で講義ができるような代物でないのはよくわかっているのですが、私の
考えが当を得ているのかを知りたいと思うのです。それでは、始めましょう。小川さんも大学受験の
時に英語の参考書で助動詞の勉強をされたことを覚えておられると思います。それは、will、shall、
may、must、used toなどがありますが、私は高校時代に(もしかしたら中学だったかもしれません)
これら助動詞を習った時に、いままで聞いたことがないような言い回しなんだなと思ったことを覚えて
います。日本語では、〜するつもりです(will)、〜かもしれない(may)、〜にちがいない(must)、
〜したものだった(used to)という言い回しは少なくとも会話で使うことはほとんどなく、活字と
なったものでもあまり見られないのです。これはこれらの表現が純粋な日本語とは言えず敬遠しがち
だったからだと思われますが、これらを効果的に使うと文章にメリハリができたり、感情表現がうまく
できたりするのです。例をいくつか上げてみましょう。「長い間、故郷のおふくろに手紙を出していない。
今日こそは出すつもりです」「いつものようにクラブ活動を終えて帰宅する道。今日は彼女の姿を
見掛けるかもしれない」「駅の改札口近くで友人をよく見掛けるが、彼は帰宅途上のクラスメイトに
声を掛けようとしているにちがいない」「高校の時には、友人のちょっとした冗談にも反応して、すぐに
戯れ言を延々と続けたものだった」これらを簡潔な文章にして、「出します」「見掛ける」
「声を掛けようとしている」「延々と続けた」としたのでは、物足りない。それは単に助動詞が省かれた
というだけでなく、尻切れとんぼになって文章の安定性が損なわれたような気がするのです。
それでは最後に、助動詞をふんだんに使って、小説の出だしを書いてみます。
『長い間、故郷に残して来た恋人に手紙を出していない。でも今日は出すつもりです。彼女とは高校時代のある日、
帰宅途上に会って帰り道が一緒であることがわかり、それからはひとつ手前の駅で彼女が下車するまで学校の話題に
花が咲いたものでした。卒業してからも交際は続いたが、離れて暮らさなければならなくなった時に彼女は笑顔で、
また会えるわねと言っていた。その彼女は今度の日曜日に結婚する。一緒に都会に出て来ていれば結ばれていたに
ちがいないが、今となっては昔の話。幸せを祈っているよと書いてあげたいけれど、まだどこかにわだかまりがあるの
かもしれない』
いかがですか。まだまだ調べなければなりませんが、中間報告をするだけの値打ちはあるでしょ」
「うーん、ぼくは文学部出身ではないので、小説の研究がどんなものかわかりません。でも、面白いと思うので
もう少し調べていただいて、機会があれば続きを伺うことにしましょう。他のテーマの研究も少しずつ聞かせて下さい」
「ええ、よろこんで」