プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生97」
小川は、都立多摩図書館からの帰り道に名曲喫茶ヴィオロンに立ち寄った。 珈琲を注文すると
朝刊を鞄から出してテーブルに置くなり、物思いに耽り始めた。
<いつだったか、ディケンズ先生が、語学の入門書を読めば、その国についての知識を得ることができるし、
違ったアプローチから一つの言葉を吟味できるので、小説を書くのに役立つというようなことを言われて
ていた。それで図書館で久しぶりに大学書林のビルマ語入門とかフィンランド語入門を開いてみたが、いちから
勉強するとなると難しいと思った。やはり大学時代に習ったドイツ語やスペイン語の日常会話の本を読むのが
よいように思う。そうすると何が身に付くのかはわからないが、ディケンズ先生が夢の中で話されたことは、
夜道を照らす行灯のように二進も三進も行かなくなった時に足下を照らしてくれるのだから、余裕がある時に
少しやっておいてもよいと思う。それに今日は相川さんから「面白い小説ってどんなんだろう」についての講義を
聞かせてもらったし、なんだか自分でも小説を書けるんじゃないかという気になって来た。相川さんは、1ヶ月後に
図書館で会いましょうと言っていたけれど、待ち遠しい気もするなぁ>
小川がふと前方のスピーカーの前の席を見るとアユミとその夫が目を閉じて、ベートーヴェンの田園に聞き入っていた。
しばらくすると、アユミの夫が小川に気付き小川の席の方にやって来た。
「やあ、お久しぶりです。相変わらず同じアパートに住んでいるのにぼくたちが顔を合わせることはあまりないですね。
秋子さんとアユミは毎日のように会っているのに...。ところで今日はどこかにお出掛けになっていたのですか」
「どうせ、読みもしない本を買い漁ったり、楽器の一つもできないくせに名曲喫茶でモーツァルトやベートーヴェンを
聞いていたんだろう」
いつの間にかアユミが夫のそばに来ていて、三角の目をして小川を見ていた。
「アユミさんっ...」
「そうなんです。まさかあなたがここに来られると思わなかったので、先程、アユミはブランデー入りの珈琲を飲んだんですよ」
「そうだったんですか。それは知らなかったなあ...」
「あなたなにを言っているの。私の質問に答えるのよ。あなたは秋子の苦労を知らないで、休日になると外をぶらぶらする
ばかり。あなたのような生活ができるのはもっと経済的に豊かな人だわ。なにかしようとは思わないの」
そう言って、アユミは小川の眼球に穴があくほど睨みつけた。
「小川さん、こ、これはいけません」
「どっ、どうかしたんですか」
「アユミが手を出さないで、バワーを溜めています。これが爆発すると...。怖くてとても言えない。とにかく、なんでもいいから
アユミが納得するようなことを言って下さい。今の場合、なにかして家計の助けにするということですかね」
「はやく、なにか言え!!!」
「うーん、どうしよう。じゃー、とりあえず、50才になるまでに小説家としてデヴューします」
「えーーーーっ」
「おう、やってもらおう。やってもらおう」