プチ小説「住み慣れた町の思い出」
「もう二度と見られないのだから。よく目に焼き付けておこう」
二郎はそう言って、高校3年までの15年の間、上り下りして来た木造官舎の入り口の坂を上った。
しばらく坂を登ると左手に告知板があり、その中央に官舎の住居の配置図が額に入れられて
掛けられてあった。
二郎はそれを記念に取っておきたいと思ったが、
「このままにしておいて目に焼き付けておけばいいんだ」
そうひとりごちて、二郎の家のそばにある(山の斜面の上にある)児童公園へと向かった。
児童公園の入口にはお地蔵さんが祠の中にまつられてあり、地蔵盆の頃には多くの人が集ったものだった。
子供たちはお供えにしていたビニール袋いっぱいに入った菓子をもらい、家に持って帰った。
「そういえば、ゆりえも一度で食べきれないくらいの菓子を手にして喜んでいたなあ。あれからもう
1年経ったんだ」
左手に木造の官舎、右手に藤棚とぶらんこを見ながらしばらく行くと広い空き地に出た。
「ここでは、小学生の頃、よく三角ベースで野球をやったなあ。防火用水池にボールが落ちたら
スリーアウトという特別ルールがあったりして楽しかったけど、結局、ホームランは打てなかったな」
二郎がたまたま落ちていた棒切れで小石を打つと、真っ直ぐ飛ばずに小石は防火用水池に落ちた。
「何かを暗示しているようだな...。さあいよいよ、我が家に別れを告げるか」
二郎はそう言うと15年間家族と過ごした埴生の宿へと向かった。ぶらんこの近くの階段を下りると
小さな広場に出たが、その左手が二郎の家だった。
「家には立ち入り禁止だから、路地を挟んだ向かいの庭でもじっくり見てみるか。この木製の長椅子の
上には松やサツキの盆栽を並べていたっけ。長椅子の向こう側には季節毎にいろんな花が咲いていたなあ。
そしてこの大きな無花果の樹。いつでも食べられると思って、一度も実を食べたことがなかったなあ」
二郎が無花果の樹に目をやるといくつかの実が熟していた。
「無花果は見た目が悪いので食べる気がしなかったけれど、今食べてみると結構いけるぞ。でももう...」
二郎はしばらく名残惜しんでいたが、無花果の実をいくつか採ると帰途についた。
帰宅して無花果を母親に見せると母親は、
「冷蔵庫に入れてよく冷やすとおいしいわよ。夕食後みんなでいただきましょうね」
と言って、ゆりえを見た。
「いちじくって、九って書くって先生が言ってたけどほんとなの」
とゆりえが言うと、ふたりは楽しそうに笑った。
註)この話は、1977年頃を想定しています。