プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生 106」
アユミの夫は小川が黙り込んでしまったので、助け舟を出した。
「なあに、小川さん、心配することはないですよ。みんなで合奏しますし、やはりメロディーを演奏する人に
視線は集まるものですから。ただ、ピーとかブーとかの音が出ると視線が集中するので気をつけて下さい」
「でも、クラリネットの初心者はそんな異音を出しがちだと聞きますが...」
「演奏中に変な音を出したら、締上げてやる」
「アユミ、そんなことを言ったらプレッシャーがかかるじゃないか。ところで演奏内容についてなんですが、今回は
オール・モーツァルト・プログラムとということでやりたいんです。メインはぼくが編曲した、クラリネット協奏曲か
クラリネット五重奏曲を秋子さんのクラリネットとアユミのピアノで演奏してもらいます。アユミの独奏は、ぼくが好きな、
ピアノ・ソナタ第8番を演奏してもらいます。他にぼくの演奏もありますが、これは当日のお楽しみということで...」
「そうですか、それではしっかり練習しないと。これからしばらくはクラリネットが手放せないなあ」
「ふふふ、そうなんだけれど、ご近所の迷惑にならないように頑張ってね。実を言うと私たちも近隣の迷惑にならないように
大きな音を出す時にはスタジオを借りているのよ」
「じゃあ、スタジオに行く時には一緒に行くよ」
「それなら丁度いいわ、みんなで今からスタジオに行くことにしましょう」
小川は秋子に教わりながらクラリネットを組み立てると、息を入れてみた。
「やっぱり、初心者には音を出すのは難しいわね。私と同じように構えて。それから口元は、まず下の歯の上に唇を軽く乗せて
唇の上にリードを乗せるようにしましょう。上の歯はマウスピースの上部、だいたい上から8ミリくらいのところに乗せる
ようにして下さい。加え加減が難しいのですが、これらのことをまとめてアンブシャーと言います。つまり正しいアンブシャー
をしていないと正しい音は出ないばかりか、音そのものも出ないのです。息は腹式呼吸で呼気を自由にコントロールできる
ようにして下さい。音が出せるようになったら、ロング・トーンの練習をしましょうね。じゃあ、しばらくは自分で練習して
音が出せるようにしてみてね。私はしばらく自分の練習をしているわ」
秋子がアユミのところに行くと、
二人の娘が小川のところにやってきた。
「おとうさん、上手く行きそうかしら」
「そうだなー、精一杯やってみるさ。これからしばらくは休日は練習に励むんだ」
「でも、おとうさん、本好きのおじさんとのおつき合いもあるんでしょ。おとうさんが図書館に来ないとさみしいんじゃないかしら」
「そうだった。やっぱり月に1回だけは、図書館に行くのを許してほしいな。あとは必ずみんなといっしょに練習に励むから」
「おかあさん、どう思う」
「わたしとしては、もう1回相川さんに会った後は演奏会が終わるまで休日は練習に専念してほしい気がするけど...。どうかしら」
「そうだね、今度、相川さんに会ったら、そう言ってみるよ」