プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生109」

相川は冷めた珈琲の半分を飲むと、にっこりと小川に微笑みかけた。
「それじゃー遠慮せずに次に行かせてもらいます。次は、「シチュエーションの設定のために必要なこと」という
 演題ですが、よくビジネスの世界では5W1Hを外してはならないと言われますが、小説の場合どうでしょうか。
 5W1Hというのは、Who(誰が)、What(何を)、When(いつ)、Where(どこで)、Why(どうして)、
 How(どのように)のことでニュース記事を書く時の中心になることと考えられますが、いざ小説を書こうと
 する時に5W1Hを外さないで書くことが果たして妥当なことなのかを少し考えてみたいと思います。例えば、
 小説の出だしを次のように始めるとどうでしょうか。『サラリーマンの石山は今年31才になる。故郷には
 出世するまでは帰省しないと誓った高校時代から恋心を抱いている女性がいる。ある日、その女性から、手紙が
 届いたが、そこには1週間したら近所の男性と結婚することになったと書かれてあった。石川は月曜日の朝に
 一旦会社に出勤したが上司に励まされ、会社を早退して石山の故郷つまり彼女の元へと向かうことになる。
 なぜ彼女が心変わりしたか、石山には心当たりがいくつかあったが、彼女の家へと行く道すがら今までのことを
 反芻するのであった』小川さんは、この出だしについてどのような感想をお持ちでしょうか」
「そうですね、人とか動物で例えると問題があるので、インスタントラーメンのようですねとでも言いますか」
「うーん、うまいこと言いますね。そうなんです、これだけでも物語の内容は把握できるし興味を持たせることは
 できる。ただ、ここに独白、対話それに3人以上の人による会話をそのまま乗せることはできないのです。
 そこでシチュエーションを設定することが必要になってきます。話は変わりますが、劇の台本と小説の最も
 違うところはどこだと思いますか」
「劇は場面設定が最初にあるから、会話に集中できますね」
「そうです、劇の場合には場の設定ができているので、基本的には会話についてだけ考えればよのですが、小説は場面の
 設定が必要だし場面などを説明する文章(地の文)と会話の文章を交錯させる必要が出てきます。だからといって、
 必ずしも地の文の中ですべてのシチュエーションを書く必要はないのです。そうです、登場人物に話させれば
 よいのです。それではいつものように小説を紹介しましょう。
 『故郷の街に着いた石山は、早速、俊子の両親を訪ねた。俊子と両親は別のところに住んでいた。「おばさん、どうして
  俊子さんは前もってぼくに相談してくれなかったんでしょうか」「それはねー、あなたがいつもウエディングドレス
  のことを結婚衣裳なんてダサイ言い方をするんで嫌になったと言っていたわ、ははは」「そんなー、ところで俊子さんは
  どこに住んでいるんですか」「それは、ないしょなのよ」「じゃー、何か手がかりをください」「そうだねー、いつも
  仕事が終わったら駅前のデパートで待ち合わせて将来の旦那と買い物をすると言っていたから、そこに行けば
  会えるんじゃないの」「ところで俊子さんの結婚相手というのは誰なんですか」「それはとっても言いにくいことなので
  自分で見て納得してほしいのよ」「誰が納得するものですか、では、ふたりはいつどのようにして知り合ったのですか」
  「それも、ここではちょっと」そういって、俊子の母親は両手を会わせて涙を浮かべながら、アパートの鉄扉を閉めた』
 いかがでしたか。今回は凝縮して会話の中に盛り込みましたが、会話の中で徐々に明らかにする手法を取れば読者は
 関心を持ち続けることができます。言い換えれば、最初にシチュエーションを明らかにするより小出しにした方が、読者に
 渇望を齎すことになり小説に対する興味を持続させることができるのです」
「うーん、なるほど」