プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生110」
「相川さん、お疲れでしょう。少し休まれたらどうですか」
「いいえ、いいんですよ。こうして、カップに残っている珈琲を飲み干しておかわりを注文したら、続けます」
相川は、おかわりの珈琲を注文すると話を続けた。
「3つ目は、「感動的な台詞とはどんなものか」ということですが、言い換えた方がよいかもしれません。「どのように
すれば感動的な台詞になるか」と。つまり台詞の内容が優れていてもそれに魂が入っていないと上滑りするということです」
「それはどういうことですか」
「小川さんは今までの講義をお聴きになって、お気付きじゃないんですか」
「実は、何となくわかります。登場人物の性格、シチュエーションの描写があって物語に没頭している時には、主人公が悲しい目に
会ったら感情移入して泣くこともできるだろうし、理不尽な目に遭わされたら怒りを覚えることも可能ということかな」
「そのとおりです。だから、小説はまずは登場人物の描写があって、場所を設定して会話をさせるというプロセスの中で、どの
ように登場人物にリアリティーを持たせることができるかということが感動的な台詞を言わせるために必須のことなのです。
その人物に対して好感や嫌悪感を持って初めて、その人の言動に対して心が動くのです。通りすがりのおじさんから、「君は、
深い海の底に沈んで人が立ち入ることができなかった世界の人のようだ。これからは、ぼくが君を導いてあげよう」と仮に
言われたとしても、言われた女性は当惑するだけでしょう。あくまでも人間同士の会話は、相手の背景や感情が掴めなければ
成り立たないのです。ディケンズの小説が面白いのは登場人物が興味深いからと言われます。それはディケンズが描写した
登場人物の外観や背景が興味深いというだけではなく、登場人物同士の会話が楽しいからなのですが、このふたつは
コインの表と裏のようなもので切り離せないものなのです。ですからヒーロー、ヒロインだけでなくたくさんの登場人物に
興味深い会話をさせるディケンズの小説は一旦読み始めると楽しいものなのですが、余りに興味深い人物が多いため
物語の筋を追うのが難しいのがいくつかあります。その最たるものが、「リトル・ドリット」だとぼくは思うのですが。
それでは小説を書いてみましょう。
『俊子の母親が言った通りに石山が駅前のデパートの入口で待っていると、俊子がやって来た。「まあ、あなたがどうしてここに
いるの」「そ、それはだな、そのー、ち、ちょっと待ってくれー」「またそうして行き当たりばったりで行動するんだから」
「そんなことないよ」そう言って、石山は子供のようにぷいと横を向いたが、以前のように俊子は反応してくれなかった。
「君のことが好きだと言うのは、何度も言ったはずなんだが...」「でも、あなたは...」「仕方ないじゃないか、仕事が
忙しかったんだから」ふたりはしばらく視線を合わせるのを避けていたが、二人の横から、やあという声がした。
「あら、ずいぶん遅いじゃない」「あっ、きみは家の隣に住んでいる本山くんじゃないか」「そうよ、あなたがいつに
なっても連絡してくれないから、せめてあなたの家に行って偶然会うことを期待したの。何回か繰り返していると、
本山君が現れて、親切にしてくれて、懇意になって...」「じゃあ、もう君の気持ちを変えることはできないんだね。
ううっ、悲しいけれど、お別れなんだね」「そうね。お別れよ」』」
「で、それで、次の演題が、「明るい小説というのは受けないか」で、そういった内容の小説をお聴かせいただけるのですね」
「まあ、そうです」