プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生111」
小川が相川に、まだ時間があるのでゆっくりされてはと言ったが、相川は講義を続けた。
「それでは、本日最後の講義をお聴きいただきましょう。「明るい小説というのは受けないか」という演題なんですが、
小川さんは、人間の奥底にある意識、心理描写をするためには、悲しい話でなければならないとお考えでしょうか」
「そうですね。やはり、物語に奥行きを出すためには登場人物の心の葛藤を描くことが必要になるでしょうが、心の葛藤と
いうのは喜劇の中ではどうしても描きにくいと思いますね」
「まあ、喜劇に限定されると辛いのですが、感動する→心を動かす→涙を流すと考えると、やはり悲しい話でなければ
文学の主流になれないと思うのはあなただけではないでしょう。それに加えて、日本人はおもしろおかしいことは演芸などの
文学以外で十分に得ることができるので、あえて文学に笑いや楽しいことを求めようとしないのでしょう。ぼくは
何度も言いますが、ディケンズの小説が好きです。それというのも、彼の小説には暖かい心とユーモアが随所に見られ、
読んでいるうちに励まされて、落ち込んだ気持ちを回復させて明日からまた頑張ろうという気にさせるからです。小川さんが
以前言われたように。「マーティン・チャズルウィット」や「骨董屋」なんかは違うのでしょうが、ディケンズの
いくつかの小説は苦しんでいる時の特効薬になると思っています。ここで本題に戻りますが、ぼくは少なくとも日本では
狭い意味での明るい小説は受けないと思います。なぜなら狭義では、明るい小説イコールおもしろおかしい(笑える)
小説となるからなのです。ですが、意味をもっと広げて明るい気持ちにさせる小説と考えれば、小説というかたちであっても
日本の多くの人の心を動かすことができると考えています。ディケンズのいくつかの小説がまさにそういったもので、
明るい小説を書くのならそちらを目指すべきだと思うのです。広義の明るい小説であれば、文学としても通用するし
単におもしろおかしい小説という扱いを受けないですむと思うのです。さて、それでは小説に移りましょう。
『石山は俊子が、「そうね。お別れよ」と言うのをきいて、愕然としてしばらく立ちすくんでいた。ふと、俊子の向こうに
立っている本山を見ると、なにやら怪しげな動きを見せていた。俊子はその前で石山の方を見ていたので、本山が
何をしているのかわからなかった。最初、本山は、俊子を指差しそれから石山を指差して両方の親指と人差し指とで
ハートマークを作って、片目を閉じてオーケーのサインをした。ここで一旦、石山はぷっと吹き出したが、俊子は
石山の足下をじっと見ていたので、そのことに気が付かなかった。今度は、本山は、自分たちの結婚話はすべて作り話で
俊子は石山の気持ちを確かめようとしているだけだという難しいジェスチャーを俊子の後ろで石山に見せた。最後に
本山が、こんなつまらないことに駆り出されて自分は非常に迷惑していると笑顔を見せながら身振り手振りで語ると
石山は心の中の重荷が取れて軽やかな気分になり、いつもと違って俊子に対して饒舌になった。「そんなことを言っても
ぼくは帰らないから、君の気持ちが変わるまでぼくはここを動かないんだから」そう言って、一歩前に出た』
続きは次回のお楽しみということで」
「ほんとにご苦労様でした。私一人で聞くのはもったいない気がします。よろしければ、次回は同じアパートに住む、
筋トレマニアの男性を連れてきます」
「そうですね。受講生は多い方が張り合いがあります。できれば、小説の簡単なあらすじだけ伝えておいて下さい」
「わかりました。今日はほんとに有意義な時間を過ごさせていただきありがとうございました」
「いえいえ」