プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生112」

小川が自宅の最寄りの駅で電車を降り改札口を出ると、後ろから聞き慣れた声がした。
「小川さん、クラリネットの練習は捗っていますか」
「やあ、これは大川さん、いいところでお会いできた。実は相談したいことがあるんです」
「いいですよ。でも、クラリネットは難しいので太鼓にしてほしいというのはだめですよ」
「いえいえ、家族みんなが期待しているのですから、そんなことは言いませんよ。ただ、練習する場所が...」
「確かにそうですね。平日のこんな時間から家で練習を始めるとしたら、たとえうまくても近所迷惑になりますね。
 日曜日の昼間に2、3時間練習するだけでは、2ヶ月後に間に合わないかもしれませんね」
「そうですよね。そこで相談なんですが、今日でなくてもいいんです。どこかのスタジオで練習するのに
 つき合ってもらえたらと思うんですが...」
「お易い御用です。じゃあ、今から行きましょうか」
「えーっ、明日、休日とはいえ、もう午後10時前ですよ」
「大丈夫。この近くに24時間やっているスタジオがあるんですよ。小川さんは一旦自宅に帰って準備ができたら、
 ぼくの家に来てもらえませんか」
「アユミさんは、お酒を飲んでいないでしょうか」
「さあ、その時はその時でどうすればよいか考えましょう」
「......」

小川が自宅を出るとアユミの夫が声を掛けた。
「小川さん、今日は二人だけでと思っていたのですが、どうしても行きたいと言うもので」
しばらくして、アユミが階段を上って来た。
「ア、アユミさんっ」
「小川さん、心配しないで、今日はお酒は入っていないから。小川さんが充分練習できるようにサポートをするだけ
 なんだから」
「ありがとうございます。アユミさんがいれば、千人力です」
「もう、いつも一言多いんだから、小川さんは」
「小川さんには言わなかったのですが、ぼくは中学生の時にクラリネットを習っていたんです。だから、楽器も一番
 安い合成樹脂のものですが持っていて、ほらこれですが、今でも簡単な曲なら演奏できるんですよ。もちろん音の
 出し方だけなら、小川さんに指導もできます」
「こうして金曜日の夜に3時間、日曜日の昼に3時間練習すれば、ライヴでそこそこ演奏できると思うわ。それに
 秋子に言われたんだけれど、クラリネットの練習は一度に3時間以上は無理みたいなの。振動が激しいから」
「そうなんですか。ぼくは日曜日に5、6時間練習しようと考えていました」