プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生113」

小川は、午後11時から始まったスタジオでのクラリネットの練習がいつ終わるのかと 思っていたが、
1時間程してアユミが、そろそろ出ましょうかと言ったのには驚いた。
「もう、練習は終わりですか。さっき、アユミさんが3時間までなら大丈夫と言われていたしてっきり...」
「ふふ、小川さん、やっとやる気が出て来たようね。そういう気持ちを目覚めさせただけでもよかったんじゃない」
「それはどういうことですか」
しばらくアユミの夫は家から持って来た鞄の中を探っていたが、1枚の楽譜を取り出すと言った。
「実は、今日はここでいくつかのことを試してみたかったんです。まず小川さんがクラリネットでどれくらい正確に
 音を出せるかを知ること。このことについては、秋子さんの指導のもと2週間ばかり練習されたところでは、息の量が
 適度に調整されていて余り大きな音は出せないが安定した音が出せているし、タンギングもきちんとできている。また
 レジスターキーを使って、音を出すのはまだ難しそうですが、低いミからラの音までは、演奏会までには安定して
 出せるようになれそうだ。音楽的な知識も基礎的なことは知っておられるし、音感やリズム感も人並みにある。そこで
 この楽譜を見て下さい。ぼくは中学生の時に近くの音楽教室でクラリネットを習っていたんですが、習い始めて2年目の
 演奏会の時にこれをやったんです」
「これは、ずっと8分音符4分音符8分音符8分音符4分音符8分音符がほとんど同じ音程で続いている。曲目は
 「ダッタン人の踊り」ですか」
「そうです、それからこの曲は「ストレンジャー・イン・パラダイス」というスタンダード・ナンバーでもあるんです。
 作曲はロシアのボロディンです。他の生徒が主旋律を吹き、中学生のぼくはこの曲の5分の3くらいタタンタタタンタという
 リズムを刻み、最後に少しだけメロディーを吹くだけですむように先生が考えて下さったんです。なにせ当時はとても上がり
 やすい質だったもので。今回は、オール・モーツァルト・プログラムなので、この曲はやりません。多分、小川さんには
 トルコ行進曲と歌曲の「春への憧れ」のバックで、気にならない程度に同じような感じで鳴らしてもらおうと考えています」
「少し安心しましたが、それでも他の楽器演奏にきちんと合うか、ずれたり音が外れたりしないか心配ですね」
「それは何度か、全員で音合わせをしていれば問題はないと思いますよ。とにかく家族みんなでなにか一つのことを
 すること、それが大事なので、失敗を恐れずにやって下さい。そうしてうまくいったら、きっとまたやりましょう
 ということになりますから、その時は自分でしっかり練習して下さい。今日は小川さんの重い腰を少し軽やかに
 しようと秋子さんと相談してやったことなんですよ。主役は無理ですが、やはり脇役の小川さんにも頑張って
 もらって、楽しいコンサートにしたいものです」
「ありがとうございます。頑張ります」

午前1時をかなり回っていたが、帰宅してチャイムを押すとすぐに秋子が出て来た。
「お帰りなさい。どうだった」
「こんなに遅くまで起きていたの。アユミさんもご主人もやさしく指導してくれたよ。家にも心強い味方がいるし、
 ライヴが楽しみになって来たよ」
「ふふふ、私だけでなく、子供たちも一緒に練習したがっているわ。明日は、自分の練習だけでなく娘たちの練習も見てね」
「もちろん、そうするつもりさ」