プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生121」

小川は、相川に先を促した。
「それでは、次は「感情移入しやすい人物とは」ということですが...」
「そうですね。ところで、小川さんは、それはどんな人物とお考えですか」
「うーん、そうだな。例えば、どこかの水族館のジンベイザメのようにその人の心の中の動きが手に取るように
 わかるなら、その人の心の動きに同化できるから...」
「うんうん、おっしゃる通りだと思いますが、水槽の中に脳を浮かべて外から顎に手を当てて思考の流れを観察
 するわけには行きません。そこで現れて来るのが人間の心の中を描いてみようという考え方なのです。18世紀
 のイギリス人牧師ロレンス・スターンは意識の流れの源流となった「トリストラム・シャンディ」を世間に発表して
 一躍売れっ子の小説家となりましたが、20世紀に入って「ユリシーズ」「フィネガンス・ウェイク」のジェームズ・
 ジョイス、「失われた時を求めて」のマルセル・プルースト、「灯台へ」のヴァージニア・ウルフなどの作家に
 影響を与えます。ここで少し質問をしたいのですが、大川さん、夏目漱石の「我が輩は猫である」はこの意識の流れ
 と言う部類に属する小説だとお考えですか」
「猫の脳の中で意識(コンシャスネス)が小川(ストリーム)のように流れるとは思いにくいですが、漱石がスターンの小説に
 ついて興味を持っていたということは事実なので、影響を受けていたと考えるのは多少は当たっているかもしれません」
「これら「猫」のような小説のことを一人称小説と言いますが、意識の流れのように心の中をのぞき見るというのとは
 違うのですが、主人公の考え、主張が自身の口から明確に提示されるので心の動きがよくわかり、三人称小説に比べると
 主人公に感情移入し易くなると思います。ただ、この一人称小説には避けて通れない問題点が2つあります。それは
 作家自身の姿が主人公に投影されることになりがちでその作家の生活がそのまま小説になったりする恐れがあることと
 結末を付けにくくなることです。一人称小説と言われる、「猫」やカフカの「変身」そして最初の「トリストラム・
 シャンディ」は、私の感想ですが、後味の悪いもの(「トリストラム・シャンディ」は未完です)になっていると思います。
 そういったことを解消するために、ディケンズは「荒涼館」という小説の中で一人称の章と三人称の章を交互に登場させて
 います。主人公エスタ・サマソンに自由に自分の主張をさせる以外に鳥瞰的にその周りの様子を描くことで、主人公の
 狭い視野でしか描けない一人称小説の弱点を克服しているのです。それでは、いつものように小説を聞いていただきますが、
 今回は主人公石山の心の動きを小説にしましたので、それをお聞き下さい。
 『「それにしても、人生はうまくいかないものなのだな」なんでこうなったか、コンニャクで大事な会話が寸断されるなんて
  ことになったのか、よーく考えてみよう。これは日頃からわたしがコンニャクを大切にしなかったからだと思う。私はしばしば
  関東煮をするが、大好きな竹輪やゴボテンは3個ずつ入れるのに玉子や豆腐と同じようにコンニャクは一切れしか入れない。
  他にすじ肉、はんぺん、ロールキャベツ、大根(これは5切れ入れるが)を入れるため、土鍋が一杯になってしまうからだ。
  それからコンニャクと言えばさしみコンニャクがあるが、これはコンニャクを味わっているというより、ゆずみそやからし
  酢みそを味わっているだけだ。こんなふうにコンニャクを粗末にしているから、コンニャクの神様のお怒りに触れたのだろう 。
  おっと、いけない、そんなことより、これからどうするか考えなければ。本山さんの心遣いは有難かった。だから、ここに
  置いて行くわけにはいかない。今、午後7時だからまだ時間がある。今日が駄目なら、明日、出直すさ。明日の夕方の飛行機に
  乗ればいいんだから。そうだ、「俊子さん、ここじゃあ、人目につくから、近くのおでんの屋台に行くことにしよう。
  そうすれば、少しはコンニャクの神様のお怒りを鎮めることができるかもしれない。3個は食べるぞ」「???......」』」
「石山というのは、何を考えているのか...」
「そうですね、でもこの小説は石山の成長もテーマのひとつなのです」