プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生124」

小川はJRお茶の水駅近くで研修会を受けた帰りに、久しぶりに風光書房に寄ってみることにした。
「やあ、お久しぶりですね」
「どうも、ご無沙汰しています。新訳がなかなか出ないので、やはり頼りになるのは古書ということになります。
 この前、こちらで推薦していただいた「大いなる遺産」(日高八郎訳)と「二都物語」(佐々木直次郎訳)は
 どちらも面白く読ませていただきました。できれば、文庫本が良いのですが、なにか良いものはないですか」
「そうですね。既に何種類かは読まれていると思いますが、「クリスマス・カロル」(安藤一郎訳)と「オリヴァ・
 ツィスト」(中村能三訳)があります。「オリヴァ」は同じものが現役版であるのですが...」
「どちらも昭和30年頃に発売されたもので旧仮名遣いで書かれているので、面白いと思います。これをいくらで」
「1,700円のところを1,500円にしましょう」
「それならいただきます」

小川はそのまま家に帰らず、いつもの喫茶店に寄って買ったばかりの古書を少し読むことにした。
<「クリスマス・キャロル(カロル)」は最初、村岡花子さんの訳されたものを読んだ他に、中川敏訳、これは
 「バーナビー・ラッジ」と一緒になっていたものだが、を読んだが、他にも40〜50の翻訳が出ているようだ。
 やはりディケンズ先生の代表作のことだけあって、心温まるスクルージと幽霊(精霊)とのやりとりは何度読んでも
 楽しい。すべての「クリスマス・キャロル(カロル)」の本を蒐集するのも面白いかもしれない。でもそうなると
 作品を味わうというよりも、集めるだけになってしまいそうなので、気を付けないと。やれやれ、心地よくなって
 来たので少し居眠りするか>

小川が眠りにつくとディケンズ先生が夢の中に現れた。
「「クリスマス・キャロル」と言えば、小川君が就職して3年目のクリスマス・イヴの日に手に取ったことを覚えて
 いるかい」
「そうでした。あの日の夜に先生は意気消沈していたぼくを励まそうとマーレーの幽霊の真似をして、炬燵の赤外線
 ランプを押しのけて現れたのでした。そうしてしばしば夢の中に現れて当時京都で暮らしていた秋子さんとの仲が
 親密になるようにしてくれたのでした。もし先生の叱咤激励がなければ、秋子さんと...」
「小川君は正直だから、きっとそう言ってくれると思ったよ。お互い好き同士であっても、いろんな圧力がかかって
 うまくいかずそれぞれの退屈な生活を続けることになった男女を私はたくさん見て来た。一目見て惚れ込むのは
 簡単なことだが、それを維持することは本当に難しいことなんだ。また告白を実行に移すには何より勇気がいるが、
 そこに至るまでにはお互いに相手を思い遣る気持ちを定着させることが必要なんだ。小川君の場合、秋子さんの
 おかげで生活が申し分のないものになっているが、安定した生活がずっと続く保証はない。だから私はこれからも
 これを使って、君たちふたりを導いて上げるよ」
そう言うとディケンズ先生は、大きな提灯に擂粉木ほどの和蠟燭を灯し、棒切れの先につけて闇夜の中に消えて行った。