プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生129」
小川は、いつもの喫茶店で「クリスマス・カロル」(安藤一郎訳)を読んでいたが、スクルージが改心して
近隣の人たちに大盤振る舞いをし出すところに来ると、本を伏せて物思いに耽った。
<スクルージという登場人物がディケンズ先生の中で特に光彩を放つのは、改心するからだろう。守銭奴で
人との交際を拒絶し、人間らしさをどこかに置き忘れて来たスクルージを過去の幽霊は夢の中でその失って
行く過程を再現してみせる。その時点で改心の兆しが見えたスクルージに対して、さらに現在の幽霊、未来の
幽霊がスクルージの不安感を煽り自分の誤りを気付かせることで、スクルージが昔持っていた善良な心を取り
戻させる。しわだらけの因業な老人がある日性格がよくなりニコニコ笑いながら子供たちに話し掛けたり、
近所の人に明るく挨拶するというのは考えただけでも心が温かくなる。でもスクルージを改心させるのが、昔、
一緒に仕事をしていたマーレーの亡霊というのが、奇抜な発想で面白いが、同じ人間がスクルージを諭して
改心させるというのは難しいとディケンズ先生は考えられたんだろうか。それにしてもディケンズ先生の小説には
改心する人がたくさん出て来る。「ピクウィック・クラブ」のバーデル夫人、「大いなる遺産」のプロヴィス、
「我らが共通の友(互いの友)」のヴィナス氏が目立つところだが、逆に、「オリヴァー・トゥイスト」の
悪人たちや「デイヴィッド・コパフィールド」のヒープ、「リトル・ドリット」のアーサーの母親、「二都物語」の
マダム・ドファルジュ、「我らが共通の友(互いの友)」のウエッグなどは独善を改めずに懲らしめられてしまう。
ディケンズ先生の言われることに従って、しばらくこことはお別れしよう。時間的なゆとりができたらまた
戻って来るとしよう。ディケンズ先生の小説を読まなければ、夢に出て来られないということはないのだから>
その夜の帰宅も午前0時を回っていたので、小川は書斎で寝た。眠りにつくとディケンズ先生が夢の中に現れた。
「小川君は、スクルージの改心はもっと別な形でと考えているのかな」
「こんなことを言うのは烏滸がましいのですが、もっと周囲の人が暖かく包んであげるとか、家族がクリスマスの日に
声掛けをするとかでスクルージが改心するというふうにできなかったかと...」
「まあそんな生温いことで心が動くような中途半端な頑固さなら、マーレーの亡霊も必要としなかったさ」
「そのマーレーの亡霊も人間ではありません。興味深い登場人物、何かを期待させるシチューエーション、思わず
身を乗り出す会話を堅牢な城壁のように積み上げて物語を構成して行く先生の手法と「クリスマス・キャロル」は
相容れないように思うのですが...」
「まあ、いろいろ考えはあるだろうが、わたしは基本的に小説はエンターティンメントと考えている。少しでも
楽しんでもらえればそれでよしとしている。「クリスマス・キャロル」の小説の中にもおかしな点があることに
気付く人もいるだろう。ある日スクルージが改心したとしても周りがそのように反応してくれるかだが、私は
本当のところはそれは難しいと思う。けれどもそのように思わせることで、いつまでも改心できない人たちの
気持ちを少しでもそちらへ向かわせるように仕向けるためのトリックと言えば、わかってもらえるかな」
「うーん、おそれいりました」