プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生131」
小川は、秋子からクラリネットのレジスターキーについて説明を受けた日の夜、夕飯を30分で済ませると
書斎に籠り持ち帰り残業を始めた。それから1時間程するとテレビの音が聞こえなくなり、秋子がお茶を持って
書斎に入って来た。
「子供たちはもう寝たのかい」
「ええ、二人とも、明日は遠足だから早く寝ると言っていたわ」
「でも、日曜の夜、こんなことになってしまって...」
「小川さん、そんなに気にしなくていいわよ。遠く離れて暮らしているわけではないし、土、日の夕ごはんは
一緒に食べるんだし、それに日曜日のお昼は一緒にいることが多いんだし」
「一般の家庭では、日曜日の夕食といえば近くのレストランに出掛けてごちそうを食べるとか、家ですき焼き、
鉄板焼き、水炊きなんかをして一家団欒を楽しむものなのに...」
「でも、小川さんはどうなの」
「じゃあ、秋子さん、答えるから、ぼくの斜め後ろでぼくの顔を見てばかりいるのじゃなくて机の横に来てくれないかな」
「こうかしら」
そう言って、秋子は机に手をかけて小川を上目遣いで見てから、あどけない笑顔を見せた。小川は胸が一杯になって
思わず秋子の手を握った。
「ぼくはこうして君がいて、ほほえんでくれるだけで幸せさ。こうしていると学生時代に大講義室で君が隣に
座って笑いながら話し掛けて来たのを思い出すんだ。あの時、何も将来のことを見通せなかったけれど、
このほほえみがありさえすれば、どんなつらいことがあっても、君のために頑張れると思ったんだ。
このことは今も変わらないし、この先もずっと同じだと思う」
「ありがとう。でも、無理しないでね」
その夜も小川は書斎で寝たが、眠りにつくと夢の中にディケンズ先生が現れた。
「いつもご苦労さんだね。家族のためとは言え、健康にはくれぐれも注意してくれたまえ」
「先生はいつもぼくの健康を気遣ってくれますが、なにか理由があるのですか」
「それはこうして元気な姿を小川君の前に見せられるのも、小川君が心身ともに健康であればこそなんだから...」
「そうですか、そういうことでしたら、秋子さんの言うように無理はしないようにします」
「そうは言っても、大切な伴侶なのだから、秋子さんの健康も考えてあげないといけないよ。君は自分のことだけを
考えていればいいんだが、秋子さんはそうじゃない。ふたりの子供のことをいつも考えている」
「仰る通りだと思うのですが、それではぼくはどうすればいいのでしょうか」
「君が困っているところを見せると、きっと秋子さんは無理を重ねてしまうことだろう。秋子さんは弱音を吐かない
人だから、窮地に追い込むことがないように君が気をつけてあげることだ」
「宣誓、彼女のほほえみを未来永劫絶やさないようにすることをここに誓います」
「そうだ、その意気だ」