プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生139」

深美と桃香は秋子の父親に連れられて、アユミが高校時代まで習っていたピアノの先生の家にやって来た。
「ねえ、おじいちゃん、ちょっときいてもいいかしら」
「どんなことかな、おじいちゃんでわかることかな」
「ここはふつうのお家で音楽教室ではないようだけど、ここでピアノが習えるの」
「わたしはちがうの。ここにはおじいさんのお友達のような人しかいないようだけれど、あれが先生なの」
「そうだよ。ここは音楽教室で、あれがふたりの先生さ。音大の先生をしているんだけど、アユミ先生が深美の
 演奏を先生に見てもらったらと言われたんで、おじいちゃんが連れて来たんだよ。先生、よろしくお願いします」
「深美ちゃんか、今小学何年生かな。それと今日は得意な曲を弾いてほしいんだけど、何を弾いてくれるのかな」
「今、3年生よ。得意な曲は、モーツァルトのピアノ・ソナタ第15番なの。このピアノで弾いていいかしら。そう」
深美は楽譜は用意していなかったが、暗譜で淡々と終楽章まで弾き終えた。
「うーん、君は、君の先生が言う通りにすごい逸材なのかもしれない。他に弾けるかな」
「そうねー、じゃあこんなのはどうかしら」
「すごいねー、昔、ホロヴィッツのレコードで聞いたことがある、メンデルスゾーンの結婚行進曲のピアノ編曲だね。
 こちらも暗譜で超絶技巧の曲を辿々しいけれど何とか弾いている」
「わたしも、メンデルスゾーンの「春の歌」なら弾けるわよ」
「よしよし、桃香ちゃんのも聴かしてもらうよ」

小川は久しぶりに午後10時少し前に帰宅できたので、秋子と共に遅い夕食を取った。
「今日は、深美と桃香がピアノを習いに行く日だったね。先生はふたりの演奏を聴いてどう思ったかしら」
「ふふふ、小川さんったら、偉い先生の前で深美が緊張して弾けなくなったなんて思っているの...」
「偉い先生って、どういうこと。ふたりは音楽教室に通うだけじゃあないの...」
「実はアユミさんの恩師のところに行ったの。詳しいことはアユミさんに来てもらって、話してもらうつもりよ」
「じゃあ、夕飯がすんだら、烏の行水をしてくるよ。来たら、少し待ってもらっていて...」
「わかったわ」

小川が浴室から出て来ると、すでにアユミはその夫を連れて小川の家に来ていた。
「やあ、小川さん、おめでとうございます。深美ちゃんが、アユミの恩師の推薦でロンドンに留学するかもしれません。
 さっき、アユミの恩師からアユミに電話があって、深美ちゃんを全面的に支援したいと言われていたと聞きました」
「えーっ、まさか。でも本当なら、すごく名誉なことです。でも...、秋子さんはそんな話をしてくれなかったので、驚いてます」
「子煩悩の小川さんにそんな話をしたらすぐに却下されることがわかっていたから、秋子は慎重に準備して来たのよ。
 実を言うと深美ちゃんは私のところで習い始めて3ヶ月で頭角を現したの。でも1年して私がお産で教えられなくなったから、
 どうしようかと考えていたわ。先日、恩師の山田先生に相談したら、夏休みに来てもらったら聴いてあげるよと言って下さったの」
「小川さんには悪いと思ったけど、日本人の音楽好きの一家が世界に通用するようなピアニストを生み出したということになれば
 とても名誉なことだと思ったし、ロンドンと言えば、小川さんの好きなディケンズ先生のホームグラウンドだし」
「秋子さんの考え方には全面的に賛成だけれど...。それにしても、ディケンズ先生が夢の中で、「別れ」と言っていたのは、このこと
 だったんだな。深美が外国に何年か留学するという...。でも、家の経済的事情を考えるととても実現しそうにないのだけれど...」
「まあ、それは問題ないと思いますね、小川さん。才能のある子供を援助する方法もいくつかありますが、アユミの恩師が
 支援すると言われてますので、心配することは全然ないと思いますよ」