プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生140」
アユミとその夫が帰った後、小川は秋子の手をそっと握って話し始めた。
「君にお願いがあるんだけれど...」
「どうしたの、小川さん、急にそんな顔をして」
「実は今回のことは全てが上手く行って、言うことなしと言う結果になったけど、秋子さんと僕の間に...」
「小川さんが言いたいことはよくわかるわ。私が子供の将来のこと、アユミさんの熱望、それから自分の欲目なんかを
優先させたために、小川さんと初めてお会いした時から途切れることがなかった、信頼というものが失われてしまったと
考えているんでしょう」
「どうしてそれがわかるの」
「10年以上ひとつ屋根の下で仲良く暮らしていれば、わかるものよ。じゃあ、小川さんは今、私が何を考えているか
当ててみて」
「そうだなー、秋子さんは、失われてしまったものをいつまでも嘆くより、長い人生を一緒に生きていこうと誓った人と
もう一度仲良くするためには、何をすればいいかと考えているんじゃないかな」
「そのとおり、じゃあ教えて、何をすればいいかを」
「そこで最初の話に戻ることになるけど...。あまり無理しないで、いつまでも子供たちやぼくに暖かいまなざしを
注いでほしいということなんだ。これからは今まで以上にしなければならないことが増えるだろう。たとえ遠く離れても
深美のことを気遣ってほしいし、いつも一緒だった姉が遠くに行ってしまった桃香は今まで以上に母親の君を頼るだろう。
ぼくも仕事が忙しくなって家の仕事を手伝ってやれなくなるかもしれない。そうすると君はきっと無理をしてしまうだろう。
深美に毎週心のこもった手紙を送らなければ、桃香が学校で困らないように宿題を見てやらねば、小川さんは今日も午前様で
疲れて帰るから...それを唱えて頑張っていると、いつの間にか病床に横たわっているということにならないようにしてほしい。
ぼくは、きみのほほえみや励ましで生かされて来たようなものさ。それがある日なくなってしまうと、どうなると思う」
「小川さんの言っていることはわかる気がするけど...。こう見えても体力には自信があるから、精一杯頑張るわ。でも、
限界を超えた時には、小川さんを頼ることにするわ」
「ああ、いつでも言って。これで胸のつかえが取れたよ」
その夜、小川は書斎で少し仕事をしてから横になった。眠りにつくと夢の中にディケンズ先生が現れた。ディケンズ先生は
指一本でピアノ演奏をしていた。
「どうだい、私の「別れの曲」演奏は」
「先生、指一本で主旋律を演奏するだけなら、ぼくでもできますよ。ところで、先生が予告して下さったおかげで冷静に
行動することができました」
「そうか、それはよかった。ところで私としては、近く私の母国を訪れる君の子供のために何か記念になるようなことを
君からしてやってほしいが...」
「ええ、それはこの前先生が言われたように、親子で「別れの曲」演奏できるようにしたいんです。ただ、それだけでは
ヴィオロンでライヴをするわけには行かないので、何かもうふたつほど演目がほしいんですが」
「安心したまえ。今度の日曜日、大川、相川と一緒になる時に、近く別れることになる人から君を喜ばせる提案があるから
楽しみにしていたまえ」
「???」