プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生147」
小川と秋子は、二人の娘が秋子の実家から帰って来た夜、すき焼きをすることにした。
「おじいちゃんは午後8時に京都に着くと言っていたから、もう少ししてから電話を入れるわ。ところで、お二人さん、
楽しく過ごせたかしら」
「最初は朝から晩までピアノばかり弾いていないでおじいちゃんや桃香と遊んでいたいと思っていたけれど、先生が
やさしくていろんなことを教えてくれるから何時間でもピアノを弾けるようになったの。ある日先生が、ここで習えない
ことがロンドンというところに行ったら習えてもっと上手になれるから、おかあさんもアユミ先生も喜ぶよ。一緒に行こうかと
言われたので、おかあさんとおとうさんが喜ぶのなら、なんでもするわと答えたのよ。でも、ロンドンというところは
遠いんでしょうと行ったら、先生は、飛行機なら2日もあれば帰れるよと言われたので、それならいいわと答えたの」
「私は違うの。最初の日におねえさんと一緒に先生のところに行ったけど、2日目からはおじいちゃんとふたりで京都の
お寺にいくことにしたの。でも毎日暑かったから、お家でテレビを見ていることが多かったわ。楽しみにしていた上七軒の
お煎餅屋さんは昨日おねえさんと一緒に行ったわ。店の前の公園でおねえさんと一緒にお煎餅を、なかなかいけるねと言って
食べたのよ」
「そうか、楽しかったみたいでよかった。ところで本当に来年から、イギリスに行くことになるんだけど深美は寂しくないのかな」
「先生のお話だと毎年1回はお家に帰れるって言うことだし、先生の生徒が何人かロンドンにいて後輩の面倒をよく見てくれる
ということなの。もちろん大きな音楽学校だから、先生は音楽だけでなく生活もきちんと指導してくれるそうよ」
「ふーん、まだ、一度も外国に行ったことがないぼくには、うらやましいというか、先を越されたというか...」
「おとうさんもおかあさんからしっかり指導してもらって、クラリネットを習うためにロンドンに来ればいいのよ」
「まあ、その夢は桃香に託すとして、おとうさんはディケンズ先生が19世紀に活躍した舞台を自分の目で確認したいから、
将来そうすることができるようになったら行ってみようかなと思う。まあ、これは叶わぬ夢だろうけど...」
「ふふふ、小川さん、いつになく感傷的になって。でも、夢というものは願い続けていないと実現しないわよ。最近、積んだままに
なっている、ディケンズ先生の本をほんの少しずつでもいいから、読んだら強い意志がまた生まれて来るんじゃないかしら」
「そうかもしれないね。ところで、ここから本題に入るが、深美がロンドンに旅立つまでにヴィオロンでライヴをしようと思うんだ
が、みんなはどう思う。深美はどう思う」
「私はみんなで演奏する機会というのはなかなか持てないものだから、できるだけ参加したいと思うわ。おとうさんのお友達とも
一緒にできるのも楽しみだわ」
「そうだ、忘れていた。その友達の相川さんも近く日本を発って仕事でしばらくはロンドンにいるということなんだ。
で、練習に深美が来てくれるのなら、挨拶したいと言っていた。秋子さんどう思う」
「小川さんが懇意にしている人だから、一度はお会いしておこうと思うの。アユミさんのご主人が来られる時にみんなで
集まることにしましょうか」
「そう来なくっちゃ」
その夜、小川は書斎で寝たが、眠りにつくと夢の中にディケンズ先生が現れた。
「どうやら、親子で私のために「別れの曲」演奏してくれるんでほっとしたよ」
「先生、ちょっといいですか。なんで、そんなに「別れの曲」にこだわるんですか。もしかしたら...」
「そうなんだ。もうひとつ別れというのがあって、それが私との別れなんだ。やはり、小川君が私の小説を余り読んでくれないので、
出てきにくくなったんだよ。小川君は仕事が忙しいので購入した「オリヴァ・ツィスト」(中村能三訳)が手つかずのままに
なっている、「ドンビー父子」「ニコラス・ニクルビー」「ハード・タイムズ」の新訳が近く出版されるとはいえ、小川君の
手元にいくのはまだまだ先のことだろう。そういうことだから、11月のライヴが終わったら、5年ほど姿を消すことにしよう
と思う。5年すれば、アユミさんもパワーアップして帰って来るだろう、多分相川も帰って来るだろう、それに子供の手が離れて
秋子さんの負担も軽減されるので...」
「どうなるのですか」
「君だけでなく秋子さんにも活躍してもらおうと思っている」
「......」