プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生151」

<それにしても、早いものだな。ここヴィオロンで最後のライヴをさせてもらってから5年が経つのだから。あの時中年男性3人で
立派にやってみせるぞと言ってはみたけれど、結局、秋子さんの助けを借りてなんとかできたという感じだった。でも今度は
アユミが復帰すると言っているから、アユミ・クインテットが復活するといいな。小川さんは突然大阪に転勤になって、単身赴任して、
もうすぐ4年が経過する。なぜだかわからないけれど音楽教室に通ってクラリネットを熱心に勉強していたということだから、中心
メンバーになれるかもしれない。その小川さんももうすぐ帰って来るということだ。深美ちゃんは中2だけれど、もうしばらくは
ロンドンでピアノのレッスンを受けるということだから、クインテットといってもメンバーは、アユミ、秋子さん、桃香ちゃん、
小川さんそして私ということになる。ピアノ、クラリネット2本、女性ボーカル、男性ボーカルでどんな曲ができるか考えておか
なくては。そういえば、相川さんから手紙をいただいていた。相川さんも年内にはロンドンから帰って来られそうだと書かれていた。
一緒に演奏するのを楽しみにしているとも書かれていたが、ピアノ2台をヴィオロンのステージに置くわけにはいかないし、そうなると
アユミに別の楽器をやってもらうか、いやいやそんなことを言ったら、昔の体力を取り戻したアユミにはり倒されてしまうだろう。
やはりアユミにはピアノを演奏してもらわなければ。そうだ相川さんと連弾でもしてもらおうかな。深美ちゃんが里帰りしている時に
一緒にやりたいと言ったら7名になるし、そうなるとピアニストが3人ということになるから、頭が痛いな。3人が譲り合って、
交代で演奏してもらうのが一番いいかもしれない。
我が家も2人の子供ができたが、下の子は男だった。アユミは熱心に子育てをしてくれているが、日曜日は1日息子の世話を
頼まれてしまう。ぼくが面倒を見ていると甘やかすことになるので、早いうちからアユミの愛のムチを経験して世の中には怖いものが
あることを知っていてもらった方が、物心ついた頃から少年になるまで子育てがし易くなると思うのだが、それをこの前言ったら、
あなたを物わかりのよい人間にしてあげると言って、蹴りやパンチを思う存分、心行くまで浴びせ続けてくれたんだった。久しぶりに
愛情のある衝撃を何度も身に受けて脳震盪をを起こしそうになりながら身を仰け反らせて喜んでいるとついにテレビの角に後頭部を
打ち付けて大の字にのびてしまった。気が付くと息子が頬擦りをしていた。ほんとに子供ってかわいいなあ。上の子は女の子だから、
アユミと同じピアノを習わせたいみたいようだけれど、ぼくたちの周りにいないヴァイオリン奏者やチェロ奏者を育ててみたい気もする。
まあ、ぼくとしては物心ついた時の娘の気持ちを尊重したいと思うのだけれど、アユミはどう考えるかだが。
そう言えば小川さんがここでアユミに、50才になるまでに小説家になると宣言したのをよく覚えている。それから相川さんが小川
さんの書いた小説を添削してあげようと言っていたのも。小川さんがディケンズのファンで、ディケンズのような小説家になって
世の中を明るくするんだとよく言われていた。今の時代は、電車に乗っても文庫本や単行本を読んでいるのを余り見掛けなくなって
しまった。文庫本という手軽に知識を得ることができる便利なものが考え出された1927年から、まだ80年も立たないのにもう
ピークを過ぎて他のものに取って変わられようとしている。限られた時間を有効に利用して知識を身につけて来た、勤勉な日本人は
どこに行ったのだろう。あっ、アユミがやって来た。下の子もようやく一人で歩けるようになったけど、こういう狭い通路を歩かせる
のは大変だな。二人とも音楽好きでヴィオロンで流れる音楽に黙って聴き入ってくれるけど、それを見ていると、親のいいところが
遺伝したのかなと親バカな人の発想をしてしまうが、本当のところは余りに心地がいいので眠ってしまうというのが正解なのかも
しれない>

「あなた、大分待ったかしら」
「いいや、そんなに」
「さっき、秋子が家に来て話してたんだけど、小川さん、来月からはまた東京で勤務するので、月末にはこちらに帰って来るそうよ。
 今月最後の土曜日に家に来たら、すき焼きごちそうするわよと秋子に言ったら。喜んで小川さん、桃香ちゃんと一緒に来るって
 言ってた」
「その時に小川さんにクラリネットを吹いてもらおうよ。熱心に勉強した成果がどんなだか知りたいし」
「わかった。秋子に言っとくわ」