プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生153」

小川たちが自宅に着いて、小川が書斎で引っ越しの荷物の梱包を解いていると桃香がやって来た。
「おや、どうしたんだい。おかあさんと買い物に出掛けるって言ってたんじゃなかったのかな」
「ええ、でもその前にこれを渡しておきたかったの」
「それは、桃香がおかあさんからもらったクラリネットだね。ははあ、おとうさんが今から荷物を
 解いて自分の合成樹脂のクラリネットを出さないで済むように、「これを使って」というわけだ」
「いいえ、そうじゃないわ。このあとアユミ先生のところで、あっと驚くことが...」
「あっ、秋子さん、桃香は何が言いたいのかな」
「小川さん、ごめんなさい。少し勿体ぶったことをするけど、アユミさんのところですべてが明らか
 になるから、もうちょっと待っててもらえないかしら」
「君がそう言うんなら、待ちましょういくらでも」

小川は、クラリネットの演奏を始める前に、アユミから大阪でクラリネットのレッスンを受けたのかと尋ねられた。
「ええ、初心者のクラスに入って4年間基礎的なことを習いました。6人のクラスで、男性2人、女性4人
 後発的なぼくはどちらかとうと小さい頃にピアノ習っておられた方やブラスバンド経験者の方に迷惑を掛けましたが、
 計4回発表会を経験してひとつの曲を仕上げることもしました。今から何曲か聴いていただきますが、1オクターブ
 低いミから2オクターブ高いソまではなんとか出せるようになりました。テンポの速い曲は練習を積まないと駄目ですが、
 それ以外ならメロディラインがわかればなんとか...」
「じゃあ、何曲か吹いてみて」
小川は、クラシックの曲を指定された通りに演奏できるとは思えなかったので、カーペンターズの「イエスタデイ・
ワンス・モア」「青春の輝き」「トップ・オブ・ザ・ワールド」と「サウンド・オブ・ミュージック」を吹いてみた。
アユミはいつになくにこやかに小川に話し掛けた。
「まあ、なんとかなりそうね。いちおう合格ということで。で、秋子、今度は桃香ちゃんのことでなにかあるのね」
「ええ、もうすぐ戻って来るから、ああ、来たようね。じゃあ、みなさん、今から何曲か桃香のヴァイオリン演奏を
 お聴きいただきます」
「ヴァ、ヴァイオリンって、それどういうこと」
「実は、アユミさんにも黙っていたんだけど、小川さんが大阪に転勤してしばらくして、桃香とふたりで名曲喫茶ヴィオロン
 に行ったの。ちょうどその時に「クレモナの栄光」と言われるヴァイオリンの小品集のレコードがかかっていたの。桃香は
 それを聴いて、どうしてもヴァイオリンをやってみたいと言い出したの。そうだったわね」
「そうよ、おかあさん」
「 わたしは本当のところは自分がやっているクラリネットをやってもらいたかったんだけど、クラリネットという楽器は
 ヴァイオリンのように子供用の楽器がないの。だから中学生になるまでは、指も届かないし自分で楽器を支えられないので、
 練習を始められない。本人は楽器をやりたくてうずうずしているのになにもしてあげられない。そこでいっそのことヴァイ
 オリンをやらせてみようかと考えたの。親子でクラリネット奏者が3人というのもいいけど、ヴァイオリンが出来れば、
 他の楽器とのアンサンブルも多彩だし、第一、たくさんの曲で深美との共演が楽しめることになるから」
「それで、この楽器をぼくに譲ってもらえたわけだ。じゃあ、今から桃香がその子供用ヴァイオリンで演奏するんだね」
「そうよ。なかなかのものよ」