プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生154」
小川は、自分の娘の子供用ヴァイオリンの演奏を聴いていて、いつまで経っても知っている旋律が出て来ないので
少し居心地が悪くなって来た。それを察知した秋子は小川の側に来て耳元で囁いた。
「小川さんは、聞き慣れたメロディーがなぜ出て来ないのか不思議に思っているかもしれないけれど、小さい頃には
やっぱり練習曲をたくさんこなしてリズム感や技巧を身につけていかないといけないの。他の楽器だったら、ジャズや
ポピュラーもたまにはいいと思うけれど、ヴァイオリンという楽器のために多くの名曲が残されているのだから、大きく
なってそれらをきちんと引きこなせるようになるために、今はこういう曲をしっかりと練習しておかないといけないの」
「うーん、ぼくにはとてもできそうもない。でもこれが桃香のためになるんだったら、続けるといいよ。それから
何かぼくにできることがあったら、遠慮せずに言って」
「ありがとう」
桃香の演奏が終わってしばらく小川はアユミ夫妻と歓談していたが、まだ長男を紹介していなかったわねとアユミが
言って、突然夫を頭上に持ち上げたので小川は思わず退った。アユミが夫をくるくると頭上で回していると、長男が喜んで
手をたたき始めた。アユミがその勢いで夫を天井に投げつけると驚異的な反射神経で夫は一旦天井に逆さまに立ったが、
重力に逆らうことはできずにそのまま落ちた。落ちたところに長男がはいはいで近寄り父親の頬に自分の頬をつけると
頬擦りを始めた。アユミの夫は、何事もなかったように立ち上がると言った。
「実は、これをするのが毎日楽しみなんですよ。母親にも父親にも息子がリアクションしてくれるので。そうそう長男の紹介が
まだでしたね。名前は音弥と言います。心理学者にそういう名前の人がいましたよね。長女は裕美という名前で、これは昔私が
ファンだった歌手から...」
「あなた、そんなことはどうだっていいの。もっと大事なことがあるでしょ」
「そうだった。実は、小川さんが帰って来られて、しばらくは休日を一緒に楽しく過ごせると思っていたのですが、また九州に
転勤することに...」
「そうでしたか。で、今度はお一人で行かれるのですか」
「ええ、ですが遠いので小川さんのように毎月帰っては来れないんですよ。それでできれば休日の夕食はアユミと一緒にして
ほしいのですが...」
「えええっ、そ、そうですね。でも、息子さんを喜ばすことは無理だと思います」
その夜、小川が胸をときめかせて書斎で横になると夢の中にディケンズ先生が現れた。
「やあ、久しぶりだね。再会というものは心ときめくものだね」
「先生もそう思われるのですね。娘が再会を喜んでくれましたが実際のところは毎月会っていましたから、先生やアユミさんの
方が再会がうれしくて」
「そんなことを言ってはいけないよ。秋子さんや桃香ちゃんは君のことを思って迎えに行ってくれたのだから」
「先生、うちの子の名前を覚えてくれたのですね。そういうことは、先生の生誕200年のお祝いのためのメンバーに」
「ああ、小川家、大川家、相川家の御三家は外せないし、他にも私の小説の登場人物のような楽しい人物も君の前に現れるから、
期待していたまえ。それから相川が帰って来たら、小説を書くことを忘れないでくれたまえ」
「......」