プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生155」

小川は、東京での勤務を再開して最初の日曜日に秋子と一緒に神田の古書街に出掛けた。 靖国通りを東へ西へぶらぶらした後、
ふたりは風光書房へと向かった。店に入ると客がいなかったので、小川はすぐに店主に声を掛けた。
「ご無沙汰しております。前にお邪魔して随分日が経ってしまったので、もう忘れてしまわれたということはありませんか」
「どうしたんですか。小川さん、あなたと奥さんはシュティフターに興味をお持ちなんだから、いわば私にとっては共通の話題を
 持っているお得意さんですよ。それにディケンズの本をたくさん買っていただいていますし」
「そうですか、そう言っていただくといつものように同じことをお尋ねするのも...」
「「ドンビー父子」「ニコラス・ニクルビー」「ハード・タイムズ」があるかということですよね。いずれもすでに新訳が発売されて
 いるのは知っているのですが、残念ながら、ここにはありません。もしかしたら、大きな図書館にあるかもしれませんから、一度
 そちらで尋ねてみられてはどうですか」
「実は、大阪市立中央図書館で、「ドンビー父子」「ハード・タイムズ」が書棚に置かれてあるのを見たのですが、「ドンビー父子」
 は2段500ページが2冊、「ハード・タイムズ」は500ページ余りが1冊ということで、遅読のぼくには諦めざるを得なかった
 んです。貸し出しは2週間で予約が入らなければもう2週間延長可能のようですが、それに購入しておけば好きな時に読めるし」
「小川さんに何度もお越しいただいているのですから、入ったらすぐに連絡させていただくことにしましょうか」
「いいえ、ぼくはここで古書を見るのを楽しみにしていますので、東京に戻ったことだし3ヶ月に1度くらいは顔を出しますよ」

そのあとふたりは名曲喫茶ヴィオロンに行ったが、少し話がしたかったので鑑賞している人たちの迷惑にならないように入口から
入って右手奥にある4人掛けのテーブルにふたりは腰掛けた。
「小川さんと初めてここに来たのが、1988年2月で、今、2004年1月だから、もうすぐ16年になるのね。ところで小川さん
 ずっと前に私が言ったこと覚えているかな。趣味と実益を兼ねた何かをやってみたいという話を」
「覚えているよ。ぼくもいつか秋子さんがその話を切り出すだろうと...」
「じゃあ、話は早いわね、それをどのようにするかということだけれど」
「まあ簡単に言えば、この街のたくさんの人に音楽を楽しんでもらおうと言うことだから、しばらくはヴィオロンでライヴをさせてもらう
 ということになるんじゃないかな。アイデアマンのご主人が出られないのは痛いけど、秋子さんとアユミさんが演奏内容を考えてくれ
 れば、ぼくはできるだけのことはさせてもらうよ。ぼくとしては君とふたりでモーツァルトのクラリネット2本で演奏できる
 あの曲をやりたいなあ。なんと言ったかなあ、あの曲」
「うふふ、モーツァルトの2本のクラリネットのための12の二重奏曲K.487ね。私も小川さんとその曲ができるようになるのを
 楽しみにしているわ。それにモーツァルトの他の室内楽曲なんかも一緒にできれば...」
「まあ、それははっきり言っておくけど無理だと思う。これから仕事も忙しくなるし、アユミさんに50才までに小説家になると約束した
 んだから一つくらい中編の小説を懸賞に出すくらいのことはしないと。そのためにはもうすぐ帰国される相川さんに何度か指導を仰が
 ないと。今、43才だからまだ時間はあるけれど、これらのことをした上でクラリネット初心者のぼくが君と一緒にクラシックの
 アンサンブルをやるというのは、はっきり言って難しいと思う。だから、これはぼくからのお願いだけど、アユミさんの伝で一緒に
 アンサンブルをする仲間を紹介してもらったらどうだろう。音大の卒業生で、例えば子育てが終わったので音楽を再開したいと考えて
 いる人とアンサンブルをした方がレパートリーも豊富になるし完成度の高い演奏を聴いてもらえるし。もちろん半年から1年に1度
 だったら、ぼくも少しは...」
「なんだか、そんなことを言われると、みんな離れ離れになるようで寂しい気がするわ」
「でも、遠くロンドンで一所懸命頑張っている深美のことを考えると、ぼくたちも現状に満足しないでいろいろやってみるべきだよ。
 子育てが落ち着いたのなら、新しい音楽仲間とモーツァルトのアンサンブルに挑戦というのが秋子さんのためにはいいと思うんだけど」
「そうね、小川さんの言うとおりだと思うから、少し頑張ってみようかしら」