プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生156」
小川とヴィオロンで話をした日の翌日、秋子はアユミを訪ねた。
「夕食の時間なのにごめんなさい。少し相談に乗っていただきたいんだけれど」
「なにもそんなに気を使わなくてもいいわよ。私はこの子たちとご飯を食べてお風呂に入ればいいんだから」
「じゃあ、お願いするわ。きのう小川さんと外出した時に音楽活動について話したんだけれど...」
「秋子がもっと音楽経験のある管楽器奏者と親しくなって共演した方がよいと小川さんは言ってたんでしょ」
「えっ、なぜそれがわかるの」
「それが秋子のために一番いいことだからよ。この前、小川さんの演奏を聴かせてもらったけれど、やっぱり
私たちと演奏するのは今のところ難しい。秋子がそれに歩調を合わせて自分のやるべきことをしないなら、
秋子がよく言っている、歌のある曲ばかりを演奏して、今、桃香ちゃんが演奏しているようなエチュードを
しなくなってしまうでしょう。音楽の3要素は、旋律(メロディ)、リズム、和声(ハーモニー)と言われている
けど、小川さんはメロディを楽しみながら演奏していると言う感じ。リズムを正確に刻むことや他のパートの
演奏者と鎬を削りながら、より完成度の高い音楽を作るというのが苦手なようだわ。音楽は楽しめばいいと考えて
いる人と音楽で生計を立てて行こうと考えている人との間にはいろんな面でギャップが存在するみたい。秋子は
趣味でクラリネットを演奏しているのだから、別に今のままでもいいような気もするけど、音大出身の管楽器奏者と
一緒に練習して刺激を受けてさらに高みをめざすというのなら協力させてもらうけど...。そのためにはメロディ重視の
音楽とはお別れしてほしいの」
「ということは...」
「まあ、ヴィオロンでライヴする時はみんなで仲良く練習するけど、それ以外は秋子は新しい音楽仲間とだけ練習してほしいの」
「そうね、小川さんに相談してみるわ」
「よろしい。ところで管楽器のアンサンブルとなると、オーボエ、ファゴット、ホルンとの共演ということになるけれど、
モーツァルトやベートーヴェンのピアノと管楽のための五重奏曲をやるときには私も呼んでほしけど」
「もちろん、それからブラームスのソナタやアルペジョーネ・ソナタをやる時にはアユミさんに伴奏をお願いするわ」
「よーし、じゃあ、人脈を駆使して秋子の音楽仲間になってくれる人を探してみるわ」
「ありがとう。ほんとに楽しみだわ」
その夜、小川が帰宅したのは午前0時を過ぎていたが、小川が、アユミさん、どう言っていたと訊いたので、今日アユミと
会って話したことを伝えた。小川は、いつになく緊張した面持ちで話し出した。
「人の人生はそれぞれの人のものなんだから、その人の事情もよく考えないでお節介をやくことは厳につつしまないといけない
けれど、自分の家族や友人がもう少し努力が必要な時や発想の転換が必要な時に、後押しをしてあげたり発想の転換をするための
ヒントを上げたりするのはよいことだと思う。両者の間に深い愛情や友情が育まれるからだ。だからぼくは君と一緒に少しでも
長い時間過ごしたいという目先の利益に捕われて、君がクラリネット奏者として有意義に使うべき時間をふいにしてしまうのを
黙って見ているようなことはしないよ。子育てが一段落して少し時間が持てるようになったんだから、君は昔からやって来たことを
より意義のあるものに高めて行かなければならない。君は君で新しい音楽仲間と頑張ってと言いたいんだ。とエラそうに言っては
みたが、年に1回くらいは...」
「そうね、みんなでにぎやかに音楽をしましょうか」