プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生157」
小川は風光書房の店主から、「ドンビー父子」の上下巻が揃って入荷したので店にお越し下さいとのはがきを
受け取った次の日、仕事を早めに切り上げてその古書店へと向かった。エレベータが4階からなかなか降りて
来ないため、小川は階段で4階まで上ることにした。小川が店に入り店主の顔を見て挨拶すると、店主は申し
訳なさそうに話した。
「せっかくお越しいただいたのですが、「ドンビー父子」はたった今、別のお客さんが購入されました。書棚に
置かずに私の後ろにある棚に目立たないように置いていたのですが、それを目敏く見つけられ、いくらでも
払うから購入したいと言われました。これは大切なお客さんのために取り置きしているんですといっても、
どうしてもこれがほしいと1時間余り言い続けられ、結局、根負けして売ってしまいました。普通の人ならば
そんなことはしなかったのですが、ある人物にそっくりで、思わず、どうぞと言ってしまったんです」
「それは誰ですか」
「ピクウィック・クラブの主人公のサミュエル・ピクウィック氏ですよ。まだ、いるかも。ほら、下の広場で
突風に吹き飛ばされた自分の帽子を追いかけて、右に行ったり左に来たりしているじゃないですか、
ほらまた右に...、ほらまた左に...。でもようやく捕獲したようだ。JRお茶の水駅の方に歩いて行かれますね」
「うーん、確かに真ん丸の頭部、真ん丸の胴体、真ん丸の眼鏡でタイツのようなぴっちりしたズボンをはいて
おまけに燕尾服まで着ていましたね。で、そのそっくりさんはよくここに来られるのですか」
「いいえ、はじめてお会いしました。最初は普通のお客さんと同じように店内の古書を見ていらしたのですが、
私の後ろの棚にある「ドンビー父子」を見つけると、それがほしいと言われたのです」
「そうですか。まあ、また入荷したとの連絡を受けたら、この次の時には朝一番にお邪魔するようにします。
今日のことは気にしないでいいですよ」
小川は以前から欲しかった本を逃してしまったのがやはり口惜しく、次の日曜日に都立多摩図書館に行き、蔵書の中に
「ドンビー父子」があるか調べ、あるようならたとえ2週間でも貸し出しして読めるところまで読んでみようと考えた。
以前、居眠りをしてしまった席に腰掛け、多摩図書館の蔵書の「ドンビー父子」を見ていると後ろで、小川さん、お久し
ぶりですと声がした。振り向くと、相川がいた。
「あっ、相川さん、帰国されたのは知っていたのですが、なかなか連絡ができなくて...」
「いえいえ、ぼくの方こそ連絡できなくて...。ところでどうですか久しぶりに近くの喫茶店でゆっくりお話でも」
「というといつもの講義ですか」
「まあ、それはもう少ししてからということで...。今日は、小川さんに小説について何かアドバイスしようかと」
「それはたとえばどんなことですか」
「そうですね。例えば、どんな小説を書くかということですが、小川さんのお好きなディケンズの流儀に従って、登場人物を
しっかり描き、何かが起りそうな場面を設定し、その中で読書を楽しい気分にさせたり感動させる台詞を言わせるというのが、
オーソドックスなやり方だと思います。他には以前お話したことがありますが、一人称小説の主人公になったり意識の流れの
手法を使って自分の内面を読者に見てもらうやり方というのも面白いと思います。それから...」
「いろいろ言っていただくのはありがたいのですが、なかなかそこまで手が回らないのですよ。大川さんの奥さんに
約束したので、50才までには1作くらい懸賞に応募したいと考えているのですが...」
「それでは、少し話が違う。大川さんのお話では、小川さんは50才までに小説家になると宣言された。奥さんのアユミさんは、
嘘つきは大嫌いだから、反古にしたらただではおかないと...」
「ううっ、なんだか知らないが悪寒がして来たので、気分を変えるために外に出ましょうか」
「それがいいと思います」