プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生159」

小川と大川が二人の家族が住むアパートに戻って来る頃には辺りが真っ暗になり、小川が時計を見ると
午後6時近くになっていたので、みんなが集まることになっている大川の家へ直行することにした。
玄関の扉を開くと、桃香がやって来た。
「みんな首をぞうさんのお鼻やきりんさんの首のように長くして待っていたのよ。さあ、おとうさんたち
 はやくはやく」
「ふふふ、もう準備が整っているのですぐにはじめましょう。ご主人は1時間しか同席できないから、
 この主賓の席に座って下さい。じゃあ、ガスコンロに火を点けてと...」
「あなた、随分遅かったじゃない。なにかあったの」
「それが、都立多摩図書館に行けば小川さんに会えるだろうと出掛けたんだったが、三鷹の駅で小川さん、
 相川さんと偶然に出くわして、3人で名曲喫茶ヴィオロンで他の人の邪魔にならないようにおしゃべりして
 帰って来たんだ」
「小川さん、相川さんと偶然に出くわしたっていうけど、あなたなにかしていて目立ったからじゃないの」
「そ、それは...」
「やっぱりね。あれほど、場違いなところでスクワットはしないでねと言っておいたのに」
「でも、お前、最近トレーニング不足になりがちで、ぼくの場合、スクワット、腹筋そして腿上げの3点セットを
 1日3時間はしないと脹脛がこむらがえりをおこしたり、肩こり、腰痛が出たりするんだよ。実際、先月1週間
 腿上げをさぼったら、足がつって夜中にふとんのなかでのたうち回ったんだよ...」
「でも、約束を破ったんだから、罰は受けないと。今日はいつもの2倍回してあげるわ」
そう言うとアユミは立ち上がって軽々と夫を持ち上げると、正月の演芸でよく見られる座布団回しのように夫に
回転を加えた。ふたりの息子の音弥は大喜びで手を叩いていたが、回転がゆるくなってアユミが夫を床に降ろすと
音弥が夫のそばにやって来て頬擦りを始めた。
「この前、子供と夫が接触しそうになって、むちゃくちゃはやめたわ。でも少しのむちゃがないと夫には物足り
 なみたいで、子供のいない時でいいから天井に投げてくれって言うのよ」
「......」

アユミの夫が、福岡にぼくは帰るので、楽しんで帰って下さいと言って玄関から出て行くと、秋子は持参した
楽譜とクラリネットを見せて、久しぶりにアユミさんの伴奏で演奏させてもらっていいかしらと言った。
食事を終えて、演奏の準備ができると秋子は言った。
「クライスラーは自作の「愛の喜び」「愛の悲しみ」「美しきロスマリン」「ロンディーノ(ベートーヴェンの
 主題による)」、クライスラーが編曲した「ロンドンデリーの歌」がよく演奏されますが、これらの楽譜が廉価で
 売られていて、ヴァイオリン用の楽譜ですが、私はそれを購入してクラリネット用に直してアユミさんの伴奏で
 ヴィオロンのライブで披露したりしました。その同じ会社の同じシリーズの楽譜の中にパラディスの「シチリアーノ」
 の楽譜がありますが、こちらは今のところ演奏会で取り上げたことはありません。それほど難しい曲ではないのですが、
 ほんとに心に訴えかけるわたしにとってかけがえのない曲なのです。だから大切にして人前では演奏しませんでした。
 この曲をここにお集りのみなさんに聴いてもらって、今後しばらくはアンサンブルだけをやって行きたいと思います。
 アンサンブルをすることで、技術の向上や音楽仲間をたくさん作ることが期待できますし、アンサンブルの中にも
 この曲のようにメロディの美しい曲を見つけ出すことができると思います。それを見つけたいというのがアンサンブルを
 始めたいということの大きな動機になっていると思います。器用な人間ではないので、今まで通りのことをした上で
 アンサンブルを始めるということが難しいので、しばらくは専念させて下さい。よろしくお願いします。それでは」
アユミの伴奏で秋子は演奏を始めたが、演奏が終わると小川は秋子に駆寄り、やさしく耳元で語った。
「君の新たな出発をぼくは祝福するから頑張って。何かあればいつだって相談に乗らしてもらうよ」
「ありがとう。でも、みんなが帰って来るところがないということにならない程度に頑張るから、そのことは...」
「そのことはぼくも肝に銘じておくよ」