プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生160」
3月半ばの日曜日の正午頃に都立多摩図書館前で相川と待ち合わせることになっていた、小川は午前11時過ぎに家を出た。
小川は昨晩遅くまで起きていて小説を書いたが考えがまとまらず、今日は200字余り出だしの部分を書いただけのメモを相川に
見てもらうことにした。その内容は、次のようなものだった。
『中学生の利治は、大のラジオ好き。その日は2学期の期末試験が終わり開放的な気分になっていたので、昼食後、携帯ラジオを
持ち出して近所の公園に行き、藤棚の下のベンチに横になるとFM放送を聴き始めた。その時間はいつも1950〜70年頃の
イージーリスニングがかかっており、利治はそれを聴きながら微睡んで時間を過ごすのが好きだった。ベンチに横になっていると、
近くで男性の声がした。「あっ、「蒼いノクターン」だね。きみもこういう曲が好きなんだね」利治が驚いて顔を上げると、
そこには20代くらいの大学生らしき人がいた』
家の近くの駅のホームで一緒になった、大川にそのメモを見てもらったが、大川は、今はコメントを差し控えたい。どうしてもと
言うのなら、相川さんのコメントが終わってからにしたいと言った。
多摩図書館に行くとすでに相川が来ていて、それではいつものところですぐに始めましょうと言った。喫茶店に入ると
相川は小川が差し出したメモを5分ばかり読み返していたが、やがてにっこり笑って話し始めた。
「なかなかいいと思います。小川さんは今回少ししか書かれなかったけれど、いくつかの大切な点を押さえておられると思います。
興味深い2人の人物の登場、この先どうなって行くのかという期待、主人公に対する興味を読者に持たせることなどが見られ、
この内容で続けられればよいと思います。ですから、次回に私の添削を持って来るというのはしないで、今からいくつか
お話しすることを参考にされて、もう一度書き直したものを次回に持参されればよいと思います。基本的にはそうしてひとつの完成
した小説にしたいので、次回書き直されたものも内容的に満足できなければ、その次までに見直してみる。それを繰り返している
うちにひとつの小説が完成する。というふうにすれば、時間の節約もできますし大川さんの奥さんに、約束を反古にされたと
お怒りを買うこともなくなると思いますが...」
小川は、アユミが自分を軽々と持ち上げて座布団を回すように回しているのが頭をかすめたが、すぐに目の前にいる相川に視線を
戻すと先を促した。
「今から言うことは苦言なので、少し気分を害されるかもしれませんが我慢して聞いて下さい。まず、この小説がいつの話かわかり
ません。小川さんと同年齢の主人公と私なら考えますが、何も知らされていない読者は、今、中学生、ということは1990年前後
に生まれた人物と考え、藤棚の下のベンチ、平日のお昼過ぎにFM放送で1950〜70年の音楽を放送していること、大学生が
「蒼いノクターン」を知っていることが、嘘っぽくなり、リアリティに欠ける作品となってしまいます。どこかでいつ頃の話か
わかるようにしておく、それもさり気なく添える程度でするのがいいと思います。次に今後の展開をどうするかある程度道筋を付ける
のがいいと思います。ラジオは主役にはできません。そこから流れる音楽を小説の彩りに添えたいというのはわかりますが、それが
多用されると本当に注目してほしいところに読者の興味が行かなくなってしまう恐れがあります。となると主役をどのように扱うか
ということになりますが、思春期の悩み多い未熟な蒼い中学生とするか、溌剌とした前向きな物怖じしない元気な中学生とするかで
すが、これは、「蒼いノクターン」を登場させていることで、小川さんはなにかを暗示しようとされているようですね。ここの
ところをどのようにされるか私は楽しみにしています。最後に少ししんどい話をしなければなりません......」
小川は、アユミが自分を軽々と持ち上げて天井に放り投げるところが頭をかすめたが、首を数回振ってそれを振り払って相川に言った。
「そ、それはどういうお話ですか...」
「小川さんが50才になられるのが、あと7年余りということですが、当初私が計画していたのが、月に1度このような会を持たせて
いただくとして小川さんに1回につき原稿用紙2枚と考えていたのですが、2ヶ月に1回となったのでもう少し...」
「そうですか。そういうことであれば、ぼくもスクワットを始めようかなと思います」