プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生163」
相川が本心で言っているのか小川は訝ったが、そのことに気付いた相川は言った。
「小川さんは、そんなことはないと仰るかもしれませんが、私よりたくさんディケンズの小説を読んでおられることから、
わかるようにきっと読まれた小説の数は私より多いことと思います。また私より若いので、新鮮な感覚もお持ちだと思います。
それに小川さんのご家族だけでなく大川さん夫婦にも宣言されているのですから、後戻りするわけにはいかない。つまり
家族を幸福にしたいという気持ちだけでなく、その他にも何とかしないと行けないという気持ちがある。これらのことが
うまく働いてくれると、趣味で小説を書いているだけの私よりずっと、よい小説を書きたいという気持ちが強くなるわけです」
「そうですか。きっと、相川さんは、婉曲的な表現でぼくに頑張って小説を書くようにと励まして下さっているんでしょう。
よくわかりました。では講義の続きをお願いします」
「それでは、「小説と戯曲の違い」について、お話しましょう。残念ながら、私は、高校時代にシェークスピアの4大悲劇を、
大学時代にモリエールの笑劇を、社会人になってオペラに興味を持つようになりボーマルシェの「セビリャの理髪師」「フィガロ
の結婚」を読んだくらいなのです。それなのに偉そうなことをいうのはよくないのですが、やはり小説ファンの私にとって、
会話ばかりが続く戯曲というのは異質のものなのです。先程、大川さんが言われたように、戯曲というのは観客に見てもらう
ために書かれたものであり、その後いくつかの過程を経て完成したもの(劇や歌劇)になる読み物なのですから、それだけで
小説と同じように楽しもうと思うのは無理があるのかもしれません。それに観客は、喜怒哀楽の感情をあらわす台詞を求めるもの
です。主人公が黙って現状を思い悩むシーンよりも、怒りや悲しみの感情を露にする方が観衆を楽しませることになるように
私は思います。要は戯曲というのは劇場という同じ空間にいる演じる側と観る側のそれぞれが満足いくように仕上げて行く
ものなので、小説のように読んでいると劇的な場面が連続して食傷気味になってくるのです。そういうことで、戯曲というものは、
地の文で情景描写、心理描写、場面の設定をした上で会話に入って行き、その後も必要に応じて状況を説明して行く小説とは
根本的に異なる観客を意識した芸術であるというのが私の結論です。ですから、戯曲が苦手と考えておられる方は、まず劇場に
行って劇そのものを見られることがそれを克服することに繋がるのではないでしょうか。
では小説に移りましょう。といっても今回は戯曲のように書いてみました。
『5メートル四方くらいの事務所。入口のところには訪問者用にテーブルと長椅子が置いてある。そのすぐ左側に4つの机が
向かい合わせて置いてあり、事務所の奥側にも左右にそれぞれ4つの机が向かい合わせて置いてある。そして一番奥には
2つの机が離れて置かれてある。そのうちの右側の机に課長が座っている。
「石山君、ちょっと来てくれないか」「な、なんでしょうか」「最近、君は居眠りをしていないがなぜだね」「なぜって、
それは休日に遠出をしないからです。俊子さんを訪ねるとどうしても睡眠不足になって」「それは、いけないことだ。
俊子さんといつから会っていないんだ」「もうすぐ3ヶ月になります」「で、今度はいつ会うつもりなんだ」「予定は
ありません」「それでは、俊子さんが可哀想と思わないのかね」「でも、背に腹は代えられません」「もっと他の言い方が
あるだろう」「私は課長のような、鋼鉄の意志、鋼鉄の筋肉、鋼鉄の胃袋、鋼鉄の脳味噌を持っていません」「またそんな
ことを言って、投げやりな。よーし、私がまた鍛えてやるから。そうだな、最近の君に足りないのは体力だと思うから、
出勤前に50メートルダッシュを10本するようにしたまえ」「500メートルダッシュを1本ではだめですか」
「それでもいいよ」』
ということで、今回はあまりよくない例でした」
「相川さんは少し小説に肩入れし過ぎだと思います。ぼくは戯曲も好きですよ。会話の妙味を味わえるし、相川さんが言われる
ような観客を意識した表現をするばかりではなく、しっとりとした心にしみる静かな場面もしばしば戯曲の中に見られます。
それにいい戯曲をじっくり読めば、何も劇場に行く必要はないと思います」
「大川さん、どうもすみません」
「いえいえ、人それぞれ好みはあるもんです。気にしなくていいですよ」