プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生165」
小川が家族と話していると、玄関でチャイムが鳴った。
「アユミさんたちが来たようだわ。私たちでここを片付けるから、おとうさん、出てもらっていいかしら」
「ねえねえ、おかあさん、私、アユミ先生と会うの久しぶりだから、ここが片付けられるまで玄関で話がしたいわ」
「じゃあ、桃香に頼もうかな。ここの準備はおとうさんとするわ。でも玄関で長話はしないでね」
「はーい、わかりました」
桃香がアユミの家族4人を連れてダイニングに入って来ると、小川が感謝の念を込めて話し始めた。
「やあ、ようこそ。我が家では、月に一度のアユミさんからの報告を楽しみにしているんです。深美も手紙や電話をくれるけど、
14才の女の子の報告できることというのは友人のことや学校のことに限られますからね。その点アユミさんのお話は深美の寮生活
から学校生活まで詳しく報告してもらえますから。本当にありがたいと...」
「元はと言えば、私の恩師が深美ちゃんの才能を伸ばしたいということで、ロンドンでピアノ教師をしている恩師の親友の元に
行かせたのだから、小川さんと秋子に心配だけはさせないようにと思っていたの。だから詳細にわたって報告して来たつもりよ。
でも、今後はどうなるか」
「何かあったの」
「まあ、うれしいことではあるんだけど。深美ちゃんは私の恩師の親友のイギリス人のところで何年かピアノを習って、ロンドンの
生活に慣れて才能が認められたら、王立音楽院などの学校でピアノを習わせようと考えていたんだけど、この才能のある子を
つまり深美ちゃんのことだけど、私が育てたいと仰る大先生が現れたの。その先生は自分で音楽学校もされているんだけれど、
世界の才能のある子供を幼い時から自分の元に置いて世界的に活躍できる音楽家に育てているの」
「ロンドンに行けただけでも、夢のようだけど。さらに世界的に有名な指導者の元でピアノを勉強できるというわけね。ところで
そうなると...」
「心配しないで。こちらからの条件は伝えてあるわ。ご両親は経済的に余裕があるわけではないので、レッスン料、家賃、生活費、
学校の授業料などを負担してもらえなければお受けできないと。それでもその大先生は、自分の弟子にしたいと言ってくださって
いるのよ」
「でも深美がなぜそんなに...」
「記憶力、技巧、音色のどれもが優れていると言われているわ。特にモーツァルトのピアノ・ソナタを弾く時のセンス・音色は
とてもすばらしいと...」
「でもこうしてみんなに支えてもらえるのも、アユミさんが深美に基礎をしっかりと教えて下さったからで、その後は水につけた
海綿のように音楽的な知識や名曲の譜面を吸収して行ったのだと思うわ。で、さっきの有難いお申し出のことだけど、
喜んでお受けするわ。名誉なことだし、当分の間、進路について考えなくてもよくなったというのは本当に有難いわ。
こんなにいろいろしていただいているのに申し訳ない。アユミさん、できればもう一つ、お願いしたいんだけれど...」
「どんなことかしら」
「深美がロンドンに行く時に、年に1回は里帰りしてほしいと願ったんだけれど、いろんな事情で実現していないの。新しい生活が
始まったら、年1回は...」
「そうね、今までは複数の学校に通っていて、休みを1週間取るというのも難しかったけれど、これからは、年1回なら2週間位の
休みが取れるかもしれないわね。そのあたりのことを恩師の先生から問い合わせてもらうわ。今まで深美ちゃんも両親に会えずに
寂しかっただろうけど、これからは年に1回は両親に自分の成長を見てもらって両親からの暖かい励ましの言葉が聞けるように
なるのなら、今まで以上に頑張れるわね」
「ほんとにそうなってほしいわ」
「大川さん、子供さんの世話ばかりしてないで、何か言って下さい」
「では、少し小言を言わせて下さい。深美ちゃんはロンドンで活躍しているし、秋子さんはアンサンブルをするということで、
アユミ・クインテットの主要メンバーがふたりもいない。ということでリーダとしては頭を抱えています。それに小川さんが小説を
書くのに専念するなんて言い出されると、もうこれは解散を考えなければならない」
「まあ、悲観的にならないで下さい。ぼくとしては年に1回は賑やかにやろうと思っています。深美も秋子さんもそれに異存はない
と思いますよ。ただ、コンサートの当日まで練習が充分できないので、それをどうするかが大きな問題ですが...」
「わかりました。深美ちゃんの帰国の前までにどうしたらいいかを考えておきます。ぼくも頑張ってコンサートを成功させますよ」