プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生166」

週末に秋子が桃香を連れて実家に帰ったので、小川は日曜日の午後、久しぶりにJRお茶の水駅近くにある喫茶店に出掛けた。
最近、風光書房で手に入れた三笠書房の「ピクウィック・クラブ」をじっくりと読んでみたいと思ったからだ。
<それにしてもこの本(といっても1971年に2000部限定発売された内の出身大学の図書館に入ったものだが)を
 手にしたのが今から二十数年前なのだが、まさか自分でそれと同じ古本を入手できるとは思わなかった。古本が面白いのは、
 前の持ち主が本文に書き込みをしたり傍線を引いたりしているのがあったり、タイトルページの下のところに自分の
 印(●●蔵書)が押してあることだ。最初はその本の所有権がまだその人に残っているようで気になったが、かえって印を
 押している本の方が保存状態が良い。だからそういった本を見つけると、きっと大切に読んで来られたが何か止むに止まれぬ
 事情があってだとか持ち主が亡くなられたとかで古書店に持ち込まれたのだろうと思うことにしている。そうして探していて
 そういった本に出会ったら、新しい所有者となったので、大切にしますよと呟いてすぐに購入することにしている。この本も
 外箱が少し変色しているくらいで、本自体には全く傷も汚れもない。......。でも、この本はほんとに懐かしいなあ。......。
 そうだ、あの時はこの本をこうして机に置いて頭を乗っけたんだっけ...>

小川はディケンズ先生が待つ夢の世界へと入って行ったが、最初にディケンズ先生と出会った時と同様に霧の中にいることに
気付いた。小川は、いつもと同様にディケンズ先生を正面に見て話し掛けた。
「どうもお久しぶりです。最近、公私ともに忙しくて、先生の著作に触れる機会がありませんでした。でも、これからは、1日
 1ページだけでもこの「ピクウィック・クラブ」を読んで先生とふれあいの機会を作りたいと思っているんです」
「それはありがとう。実は私も小川君とこうして話すのが楽しみなんだ。だから「オリヴァ・ツィスト」(中村能三訳)を
 買ったのにいつまでも読まないのは、なぜかと思っているんだ」
「そうですか...。では、これはぼくの「オリヴァ・ツィスト」に対する個人的な意見なので、聞き流していただくと有難い
 のですが...」
「どうしたんだね。改まって。なんでも言ってみたまえ、かまわないから」
「この勧善懲悪の小説では、オリヴァはブラウンロー氏との出会いで不幸な生活から一転して輝かしい未来が待っている
 生活へと移って行きますが、その余りの違いに愕然とするのです。悲惨な生活を逃れるためにロンドンに出て来たわずか
 10才くらいの少年がフェイギン、サイクスをそれぞれ親玉、優等生とする窃盗団に引き込まれそうになるのをなんとか
 逃れ、ブラウンロー氏に助けられる。しかしオリヴァはすぐに窃盗団に連れ戻されます。窃盗団の計画が失敗してオリヴァが
 負傷したおかげで、ローズという天使のような少女と出会うことになり再び明るい兆しが見えて来ます。やがてオリヴァは
 ローズのおかげでブラウンロー氏と再会することができ、悪党、フェイギン、サイクスそれに黒幕のモンクス、最初に
 オリヴァを虐待したバンブル氏はみなひどい目にあわされることになります」
「うんうん、いつもながら君の解説は要を得ているね」
「でも、先生、その過去について何もわからない、窃盗団の少年たちと同じような服装をした少年になぜブラウンロー氏は親切に
 したんでしょう。これについては、ローズやメイリイ夫人も同様です。それから悪党4人の描き方に荒さが見られます。
 「ベニスの商人」のシャイロックをイメージしてフェイギンを描かれたのだと思いますが、その描き方に疑問を感じるところが
 多々あります。サイクスもただ凶暴な人間で先生の小説の登場人物としてふさわしくないような気がします。それから...」
「まあ、この小説に関しては、言いたいことはたくさんあると思う。でも、「ピクウィック・クラブ」を書いて人気絶頂になった
 怖いもの知らずの26才の作家がとにかく面白い物語を読者に提供しようと思って書いた作品と考えれば、多少の無理や無茶も
 許してもらえるだろう。確かに37才になって書いた「デイヴィッド・コパフィールド」と比べると未熟なところがあるが、
 若い頃の情熱、実直さ、正義感といったものが感じられるので自分の作品の中でも特別に愛着のある作品なんだよ」
「そうですか。それとは知らずに軽く見て来ました。ごめんなさい」
「いや、いいんだ。わかってくれれば。ところで君が今読んでいる、「ピクウィック・クラブ」の主人公のピクウィック氏を
 お連れしたので、何か言ってやってくれたまえ」
「あのー、こんにちは」
「こんにちは、小川さん」
「先生、喋りましたよ」
「そうなんだ。これから私は生誕200年まであと8年足らずということで忙しくなるから、代わりに彼に登場してもらうことも
 あるかと思う」
「そういうわけですので、よろしく」
「こちらこそ」