プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生167」

小川はクラリネットの練習をするために最近よく利用する、大井三ツ叉交差点近くにあるスタジオに
向かって歩いていた。JR大井町駅を出てしばらく歩いていると向かい側から英国製の高級紳士服を着た
友人がにこやかに話し掛けて来た。
「小川さんも何か用事があって大井町に来られたのですね。そうですか、クラリネットの練習に来られたのですね。
 そうだ、丁度いい、そこのイタリヤ料理店に入って、小説以外の話をしませんか。例えば、娘さんのお話なんか...」
「いいですよ。ぼくも相川さんがイギリスに滞在されている間、深美と会われたかどうかも知らないし」
「ええ、何度かお会いしたのですが、深美ちゃんには、自分でおとうさんに言うから、手紙には書かないでとお願い
 したんです。だから多分深美ちゃんからの手紙には、私のことは出て来ないと思うんです」
「ええ、だから気になっていたんです。で、どんな様子でしたか、深美は」
「そう、2ヶ月に1度は一緒にピアノを弾いたりしてました。いや、それぞれが演奏するのを聴いていたという方が
 正確ですね。深美ちゃんは、モーツァルトやベートヴェンのソナタが中心でしたが、私は、ロマン派、シューベルト、
 ショパン、シューマン、メンデルスゾーンの作品が中心でしたね。私は素人なので、装飾音をいっぱい付けてしまう
 のですが、深美ちゃんの場合は節度のある演奏と言うか、決して過度に飾ったりはしない。それというのも内面の
 美しさがにじみ出るようなそんな音が出せるからなんです。中学2年生であの境地に至っているのですから...」
「そんなにお褒めいただいてありがたいです。でも、ぼくらの届かないところに行ってしまっているので、深美の
 これからのことは本人か先生方の意見をそのまま受け入れるしかないですね。要は彼女の人生は彼女のものなのだから
 親がとやかく言うものではないのですが、何も言えないというのは...」
「ははは、それは心配し過ぎというものです。深美ちゃんは演奏技術だけでなく、人間的にも立派に成長されています。
 このことについては私は太鼓判を押させていただきますよ。近く帰って来られると聞いたのですが、いつですか」
「そう、1週間だけですが、今度の日曜日に帰って来ます。ぼくは平日は仕事で時間がとれないので、ゆっくりできるのは、
 帰って来た日と帰る日かな。なんでしたら、食事に同席していただけたら、深美も喜ぶと...」
「いいですよ。じゃあ、帰られる日の昼食なんかはどうでしょうか」
「では、お昼少し前にぼくの家までお越し下さい。それから近くのレストランに出掛けましょう」

小川が大井町のスタジオで練習を終えて帰宅すると、午前0時近くになっていた。小川は玄関の鉄扉を静かに開けて、
家の中に入ったが、秋子と桃香は疲れているためか、起きる気配はなかった。
<明日は休みだし、秋子さんにわざわざ起きてもらう必要はないだろう。今日は書斎で寝ることにしよう。相川さんが
 昼食を一緒にしてくれるというのは、明日、秋子さんに言うことにしよう。相川さんの話だと深美は演奏技術
 だけでなく人間としても立派に成長しているということだけれど、親の手が届かないところで立派に育てられたと
 言われてもなんだか実感がわかないなあ。こういうことを帰宅してすぐに秋子さんに話して、彼女なりの感想を
 聞くのが楽しみだったんだけれど、最近は、仕事がハードなためか、一旦横になると翌朝まで起きて来ない。今日も、
 こうして声を掛けられないでいるが、自分のわがままばかり押し付けていてはいけないし、まあ、ディケンズ先生から
 何らかのサジェッションをいただけるとありがたいのだが...>
小川が眠りにつくと、夢の中にディケンズ先生が現れた。ディケンズ先生は、クラリネットとピアノを同時に演奏しようと
していたが、うまくいかないようだった。
「先生がほのめかされようとしていることが、なんだかわかりました。あれもこれもとよくばっては駄目ということですね」
「そ、そうだね。でも、わたしも、秋子さんや深美ちゃんのように、楽器がうまくなりたーい」
「......」