プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生169」

小川が次の言葉が継げなくてピクウィック氏の後方にあるポプラの樹の枝に突き刺さった帽子を
見ていると、ピクウィック氏がにこにこ笑いながら話し始めた。
「まあ、考えようによっては、娘さんの気持ちを考えないで自分勝手な独善的な行動をするのはよくないと
 いうことを暗示しているのかもしれませんね」
「じゃあ、どうすればよいのでしょう」
「まあ、相手のことを大切に思うのなら、自分が譲歩するということが必要かもしれませんね。
 年に1回のことなら、会社も理解してくれるかな...」
「そうか、その手があったな。10年ぶりになるけれど、有給を取ればなんとかなりそうだ...。ありがとう、
 恩に着ますよ」
「お役に立ててよかった。それでは」
「そうだ、ディケンズ先生は忙しいと言われていましたが、当分はお会いできないのでしょうか」
「安心して下さい。小川さんに寂しい思いをさせないようにすると言われてましたから」
「そうですか。でもたまにならあなたも歓迎しますよ」
「いいえ、先生の生誕200年の年が終わるまでは、先生の代わりにしばしばあなたの夢の中に出て来ますよ」
「......」

朝、小川が目を覚まして時計を見ると午前8時を過ぎていた。台所に行くと秋子ひとりで、桃香はヴァイオリンの
レッスンを受けるために少し前に家を出たとのことだった。
「いつもなら起こしてくれるのに、どうして?もしかしたら」
「そうよ、小川さんが夢で誰かと話しているようだったから」
「やはりそうか。誰かというとディケンズ先生でないということがわかったの」
「まあ、感覚的なものだけれど、大文豪と言われるディケンズ先生と話す時とは少し違ってたわ。で、その方が
 今日はアドバイスしてくれたのね」
「そうなんだ。ピクウィック氏と言って、ディケンズ先生の最初の長編小説の主人公なんだけれど、ディケンズ先生の
 小説の他の登場人物は読者それぞれが勝手に頭の中で想像するしかないんだけれど、ピクウィック氏だけは、挿絵
 などでその容貌が強く印象づけられている。だから実在した人物のように僕の夢の中に出て来ることが可能なんだろう」
「よかった。ディケンズ先生の他の登場人物が次々と小川さんの夢の中に現れて収拾がつかなくなったらどうなるかと...」
「ははは、それは大丈夫だよ。ところで、きのう言ってたことだけれど、水曜日に有給休暇を取るから、お昼は僕たち
 ふたりと深美で上野公園にでも出掛けようよ。それから夕方にこの近くで桃香と待ち合わせて、家族水入らずで夕食を
 食べるというのはどうかな」
「それはいい考えだわ。うまい具合に水曜日はアンサンブルの練習もないし、じゃあ、その日は少し早く起きてお弁当を
 作るわね。で、仕事の方は大丈夫なの」
「まあ、木曜日と金曜日にたっぷりと残業するさ。土曜日の朝は少し朝寝坊するかもしれない」
「ふふふ、でも、日曜日の朝食は4人揃って取りたいから、早く起きてね」