プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生170」
深美がイギリスから帰って来る日に小川は、日曜出勤を余儀なくされた。 帰宅すると、秋子、深美、桃香が歓談していた
ので、小川はほっとした。
<イギリスでは人と話す機会が減っただろうから、人と話すのが億劫になっていないかと心配していたんだが、そうでも
ないようだな。おや、この声はアユミさんの声だ。この人にはこれからお世話になるから、仲良くしておかないと...。
おおーーーっ、でもあれはもしかして>
小川が靴を脱いで、茶の間に入って来るとテーブルの上にある銀紙が目に入った。
「おとうさん、お帰りなさい。1週間余り、お世話になります。一足お先にみんなでおみやげを食べていたの。チョコレート
なんだけど、アユミ先生には大人向けのスコッチウィスキー入りのを買って来たの。どうしたの、おとうさん」
「いやっ、なんでもないんだ。とっ、ところでアユミさんっ、今日はいい天気ですね」
「あんた、何を言っているの。娘が帰って来ると言うのに、迎えに行くこともできない。それで、父親として...。ふふっ、
どうやら、小川さんは私がアルコール入りのチョコレートを食べて、大暴れするんじゃないかと恐れていようだけれど、
このくらいの量なら心配することないから」
「そうですか、それを聞いて安心しました。ところで、深美、おとうさんにもロンドンでの生活のことを話してくれないかな。
東京と変わらないということはないんだろ」
「まあ、自分が何を望むかで違うようよ。私はとにかくあと数年は音楽漬けの毎日を送って一廉のピアニストになってやろうと
思っているので、他のことには余り興味がないの。先生も私の気持ちをよくわかってくれていて、夜間や休日の練習にも
快くつき合って下さるのよ。まあ世間知らずの優等生にならないように同級生とのおつき合いは十分にしているけれど...」
「友人なんかはどうなの」
「おかあさんは東京にいる時の私をよく知っているでしょ。友達付き合いを大切にしているということを。それに周りにいる子は
みんなクラシック音楽に興味を持っているから、私がピアノを弾き始めるとニコニコしながら耳を澄ませて聴いてくれるわ」
「じゃあ、今のところ別に不自由はしていないの」
「そうね、あえていうなら相川さんかしら」
「相川さん...」
「私がイギリスに行ってしばらくして相川さんがわたしのところにやって来て、いろいろ教えて下さったの。ホームシックになら
なかったのも、イギリスでの生活に困らなかったのも、ピアノの勉強に専念できたのもみんな相川さんのおかげなの。月に一度
相川さん宅にお邪魔するのが楽しみだったのよ。奥さんもお嬢さんもいい人よ。最近、帰国されて少し寂しいけれど、今では
同年の友人もたくさんいるから」
「そうそう相川さんと言えば、今度の日曜日の昼食に相川さんをお招きしているんだ」
「そう、イギリスに帰る日の昼食ね。うれしいわ。お会いするの久しぶりなんですもの」
「ねえねえ、おねえさん、これから私たちの前でピアノを弾いてみせてくれないかな」
「いいわよ、桃香。アユミ先生、それからおとうさんとおかあさんも一緒に聴いてくれる」
「喜んで聴かせてもらうわ。で、何を弾いてくれるの。モーツァルトそれともベートーヴェン」
「何でもリクエストして、彼らのピアノ曲なら全部暗譜で弾けるから」
「うーむ、凄すぎる」