プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生171」

深美が演奏するのを目を閉じて聴いていた小川がふと目を開くと、秋子がクラリネットを、桃香がヴァイオリンを
取り出して演奏の準備をしているのが目に映った。深美がベートヴェンの田園ソナタ(ピアノ・ソナタ第15番)を
演奏し終えると秋子が話し掛けた。
「マエストロ、私たちと共演していただけませんか」
「いやだわ、おかあさんたら、もちろんそういうリクエストもあると思って練習はしてあるんだけれど、それで
 いいかしら。そう、ありがとう。それじゃー、おかあさんは、ブラームスのクラリネット・ソナタ第2番...」
「ねえねえ、おねえさん、私は、お手紙で言っていたでしょ」
「ええ、わかっているわ。ベートーヴェンの「春」(ヴァイオリン・ソナタ第5番)の第1楽章だけね」
「そうそう。私が先に演奏していいかしら、おかあさん」
「もちろんよ」

秋子と深美が演奏し終えると途中から聴衆に加わった、アユミの夫が、ブラボーと言いながらヒンズースクワットを
始めた。それを見たアユミはすかさず、夫の鳩尾にパンチを入れた。夫は、ぐぇっと言って膝を落とした。
「あなた、こんなところで、筋トレをするなんて非常識よ。一家団欒にお邪魔しているだけでも、いけないことなのに」
「そう言うけど、お前、私も深美ちゃんがどんなに立派になっているか見たいんだよ。子供2人をお隣にあずけて来たから、
 もう少しいていいだろ」
「わかったわ。でもここで筋トレはしないと誓って。盛り上がった雰囲気が一遍に台無しになるから」
「わかったよ」
「そうそう、私、ご主人、こういう言い方に慣れてしまったので許してね、のためにも1曲用意しているの。私の伴奏で
 歌われませんか」
「何と言う曲かな」
「シューベルトの「君はわが憩い」という曲なの」
「それなら、今すぐでも歌えるよ。準備はいいかい」
「ふふふ、じゃあ、楽譜を準備するから少し待ってね」

アユミとその夫は、子供のことが気になると言ってそれからしばらくして自分たちの家に帰って行こうとしたが、深美は玄関まで
アユミを追いかけて行き話し掛けた。
「今日しか会えないのは本当に残念だわ。先生にはもっと感謝の気持ちを...」
「私も朝から晩まで、深美ちゃんを独占したいけど...。でも、1週間なんてあっという間だから、せいぜい両親に甘えておきなさい。
 いざという時に力になってくれるのは両親なんだから、あなたのよい印象を心に留めてもらうようにしないといけないわ。
 さっき、演奏を聴かせてもらったけれど、予想以上に上達、そんな言葉でいうのがおかしなくらい、しているから、人前で
 演奏する日も近いんじゃないかしら、でも決して焦らないで、一旦人前で演奏するようになると、練習する時間がなかなか
 取れなくなるから。今のうちにたっぷり練習しておいて。ねえ、あなた」
「そうだよ、ぼくがアユミのパンチで失神しないのも、日頃からヒンズースクワットと腹筋を欠かさないからなんだ」
深美は、ありがとう、先生と言ってアユミの胸に飛び込んだ。