プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生173」

小川は、秋子と深美と3人で出掛けることになっていた日の朝、深美の声で目を覚ました。
「おとうさん、そろそろ起きてね。今日はハードスケジュールなんだから」
「そうかい。行き先はふたりに任せていたけれど、どこに行くことになったんだい」
「おふたりの懐かしい思い出の場所に行こうと思っているけれど、遊園地や渋谷や原宿のような
 賑やかなところにも行ってみたいな。でも一番は...」
「深美はいろいろ行きたいところはあるだろうけれど、おとうさんの体調を考えるとあんまり無理を
 しない方が... 」
「ああ、おかあさん、もちろんわかっているわ。今日のお仕事をその前後でこなさないといけないから
 特に明日と明後日のお仕事が大変だというのは」
「だったら、こんなに早くお父さんを起こさなくても」
「そうね。ごめんなさい」
「いいさ、楽しみにしてくれているのがよくわかるよ。ところで最初はどこに行く」
「そうね、東京駅かしら」
「東京駅で何かやっているのかい」
「ある人たちと約束しているのよ」

3人が東京駅のホームに上がるとすぐに上りののぞみがホームに入って来た。
「えーと、この電車の8号車だったわ。あ、いたいた」
小川と秋子が深美の視線の方に目をやると秋子の父親とアユミのピアノの恩師がのぞみから下車する
のが見えた。深美が駆寄ると祖父は満面の笑顔で応えた。
「帰国しても、忙しいので会えないと思っていたけれど会えて良かった。深美が、先生に会いたいと言っていると
 伝えると、今日の午前中なら時間が作れると言って下さったんだよ」
「おふたりが来られるとは思いませんでしたよ。先生とは遠く離れているのをいいことに手紙のやり取りだけで
 済ませていた。深美は直接会ってお礼を言わなければ、礼を失すると考えたのでしょう。本当にあの時はお世話に
 なりました。今、こうして立派になったのも...」
「いえいえ、われわれは才能を見つけるだけで、後のことは本人次第なんです。才能を見出しても必ずしも
 開花するとは限りません。でも才能があるのに、それを伸ばすチャンスがないというのは悲しいことです。
 深美ちゃんが、アユミという優れたピアノ教師に出会えたのは幸運だったと言えるでしょう。子供の無限の力を
 引き出す術を心得ている教師に。少しのヒントを与えただけで、ピアノのタッチ(音色)を極めたり、暗譜することの
 大切さを知ったり、自分のスタイルで超絶技巧や即興演奏をしたりできるようになった。これらはすべて彼女が
 あなた方の娘さんの眠っていた才能を見出して、大切に育てたおかげだと言えるでしょう」
「先生がおっしゃる通りだわ。でも、今、イギリスでなに不自由なく音楽を学べるのは先生のおかげです。その感謝の気持ちを
 こうして直接伝えたくて、今日は少し無理をお願いしてしまいました。ごめんなさい」
「なあに、どうせヒマなんだから...。こんな話ならいつでも言って下さい」
「私も孫にこうして会えたんだから、むしろ感謝したいくらいですよ。あとは親子の貴重な時間を侵さないようにしないと...」
「せっかく、お越しいただいたんですから、一緒に昼食でもいかがですか」
「そうですね。でも、昼食をご一緒したら、我々は浅草にでも行きましょうや」
「浅草ですか。いいですねー」