プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生174」

昼食後、小川は秋子の父親とアユミの恩師に、上野駅まで一緒に行きましょうと言ったが、ふたりは、自分たちで浅草までの
最短の道を探すからかまわないでくれと、笑いながらどこかにまぎれて行ってしまった。
「せっかく、京都から新幹線で来てもらったのに、悪い気がするなぁ。今度は自宅に来てもらってゆっくりとしてもらおう。
 ところで深美、今度はどこに行くんだい」
「次は、お茶の水の...」
「ああ、やっぱり、風光書房だね」
「残念でした、私が行きたいのは楽器店で、そこの試奏室でおかあさんの演奏を聴かせてもらおうと思って。楽譜は持って来たわ」
「ちょうど良かった。おかあさんも、最近発売されたマウスピースを買おうかなと思っていたところなの。購入するからと言えば、
 しばらく吹かせてもらえるわ。あなたも吹かせてもらったらどうかしら...」
「私は...」
「ぼくは今度の日曜日に吹かせてもらうから、今日は君が深美のために...」
「そうね。ここでどんな感じで私が小川さんのためにクラリネットを吹いたかが問題なのよね」
「そうなの。そこが問題なの」

「どうだった。お二人のために心を込めて吹かせてもらったけど...」
「うーん、こういうのもいいね。なにか耳元でやさしく囁いてくれているようで」
深美はしばらく腕を組んで考え込んでいたが、母親の肩に手を置くと
「こういうことはピアノではできない。でも、ピアノにはピアノのいいところがあるわ。ほんの少ししか聴いてもらえないのが
 残念だけど、今度の日曜日に私が...」
「そうね、みんなで楽しい一時を過ごしましょう。もちろん、輪の中心は深美で」
「それじゃー、次は名曲喫茶に行くとするか」
「それって、おとうさんの行きたいところじゃないの」
「私も一度行ってみたかったんだ」

名曲喫茶ライオンを出て、道玄坂を下って渋谷駅に行く途中で小川は秋子と深美に笑顔で話し掛けた。
「ふたりともびっくりしたようだね。気に入ってくれたかな」
「この前に来た時よりずっと音が良くなっていたわ。あれだけ大きいスピーカーだと交響曲、協奏曲、管弦楽曲なんかは
 ほんとにすばらしい音がするわね」
「私は、ピアノもいいと思うわ。次に来るのがいつになるかわからないけれど、今度来た時は私もリクエストしようかな」
「レコードは何度も編集していたり音色を変えたりしているけれど、その音が心地よいものであるなら問題ないと思うんだ。
 生の音は自然で聞き飽きないけれど、完成度の高い演奏を手軽に楽しめるのはやはりレコードになる。今の時代は、
 音楽をヘッドフォンで楽しむ時代になっているけれど、たまには耳をオープンにして流れている音楽に耳を傾けるように
 して聴くのがいいんじゃないかな。風の音も、自然の音も、鳥の鳴き声も、子守唄も、ラジオから聞こえるDJの声も自然に
 耳に入って来るんだから、音楽もそうして聴くのが一番いいように思うんだけど...」
「まあ、時と場合によるわね。でも、たまにはこういうところで聴いてみるのもいいわね」
「じゃあ、あとは高円寺のおいしいおそば屋さんに寄って帰るか」
「わたしは、駅前のケーキ屋さんにも行きたいな」
「そうね、桃香におみやげを買って帰ろうか」
「ふたりともお疲れのところ申し訳ないけれどもうひとつ...」
「わかってるって、名曲喫茶ヴィオロンでしょ」