プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生175」
小川は名曲喫茶ヴィオロンの入口の手前で立ち止まり、秋子と深美に微笑みかけた。
「やっぱりここは外せないね。だっておかあさんとのより親密な交際が始まったのも、ここでのコンサートが
切っ掛けだったんだから。みんなで楽しいライブもしているし。そうそうアユミさんとの中身の濃いおつき合いも、
ここでのコンサートが齎したものだ。最近では自分が小説家になるとアユミさんご夫婦にここで宣言している」
「まあ、立ち話はこのくらいにして、中に入りましょう。入ってすぐ右側のテーブルなら、少しくらいは話せるでしょ」
「そうだね。でも、桃香も待っているし、ぼくのリクエストを最後まで聴いたら、家に帰るとしよう」
マスターが注文を取りに来たので、3人はそれぞれ注文した。マスターが、リクエストは入っていませんと言ったので、
小川は、いつものあれを頼みますと言った。
「おとうさん、いつものあれって...」
「もうすぐかかるから、ちょっと待っていて...。ほら、始まった」
「ああ、...。この曲ならよく知っているわ。ブラームスの弦楽六重奏曲第1番ね。両端の楽章がのどかな田園風景を彷彿と
させるけど、第2楽章は女性の好きな男性への熱い思いを強く感じさせる美しい曲だわ。カザルスのチェロの音が聞こえる。
アナログで聴くと本当にすばらしいわね。カザルスはバッハの無伴奏チェロ組曲やドヴォルザークのチェロ協奏曲のソロ演奏で
有名だけれど、たくさん弦楽器やピアノと共演をしているわ。おかあさんは、コルトー、ティボーと共演した
メンデルスゾーンのピアノ三重奏曲第1番も好きだわ」
「私はもっぱらピアノの独奏曲を練習して来たから室内楽のことはあまり知らないの。これからはそういうのもやってみたいわ。
そうだ忘れていた、おかあさん、アンサンブルを始めたのね。どう、上手く行ってる」
「まだ始めたばかりなの。みんなで一所懸命練習しているわ。けど、お父さんの小説執筆と同じで暗中模索して進めている
感じ。けれどふたりには心強い味方がいるから」
「私、誰だかわかるわ。おかあさんにはアユミ先生、おとうさんには相川さん。おふたりは私にとっても大切な...」
「そうよ、深美は、アユミさんご夫婦、相川さん一家、アユミさんの恩師とたくさんの方達が支えて下さっているわ。これからも
お世話になるんだから、今度の食事会できっちりお礼を言っとかないといけないわね」
「もちろん、それは考えてあるから、安心して」
「ほんとにしっかりしているわね。どちらに似たのかしら」
「そりゃー、君に決まっているじゃないか。常に先のことを考えて計画的に行動している。僕なんか次の次の日曜日に相川さんに
小説を添削してもらわないといけないのにまだ1行も書いていないんだ。相川さんの小説はユーモア小説だけれど、ぼくは
シリアスな小説を書いてみようかなと思っているんだ」
「おとうさんはまじめなことばかりを考えると、お尻がむず痒くなるんじゃないかしら。そうして小説を書くどころではなくなると
私は思うの。やっぱり、愉快なキャラの人を登場させて、読者を楽しませる小説がいいんじゃないかしら」
「それもいいけど、ぼくは、シリアスな小説に挑戦してみたいんだ。ユーモア小説で相川さんを越えることは無理だろうし」
「そうかもしれない。でも、私は...」
「ふふふ、そういう頑固なところはおとうさんに似ているわ。とりあえず第一作目はおとうさんが思う通りに書いてもらって...」
「そうね。でも、いつか私たちの家族も描いてほしいな。愉快で楽しい家族が出て来る小説を。本になったら永遠に残るし...」
「それはおとうさんも考えていることなんだ」