プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生177」

アユミと小川とその家族がJR高円寺駅からそう遠くない名曲喫茶ルネッサンスに行くと、既に相川は
来ていた。
「やあ、みなさんお揃いですね。リクエストしていて、途中で出るのはよくないですからもう少し
 おつき合いいただいていいですか。入口のところで飲み物のチケットを購入されてこちらに来て下さい」
「シューマンのクライスレリアーナですね。しかもアシュケナージの。意外だな、ショパンじゃないのは」
「そうかもしれませんね。でもこの演奏は大好きで、あちこちの名曲喫茶に持ち込んで掛けてもらっているんですよ」
「そうですか。でも、このあと夜7時の飛行機で深美はロンドンに戻らないといけないので、余り時間がないんですよ」
「じゃあ、これが終わったらすぐに出ましょう。今から行く店はこの近くです。演奏はあと5分くらいかな」
「前から名曲喫茶ヴィオロンのマスターに高円寺に新しい名曲喫茶ができたと聞いていましたが、なかなか来れなくて」
「というより、どうせ行くなら、勝手を良く知っているライオンやヴィオロンの方が居心地がいいと思われていたのでは」
「うーん、確かにご推察の通りです。でも、ここも居心地がよさそうだ。だけどこの白い馬の頭部は気になるので...」
「ははは、それは私も同感です」

6人が食事を終えると、相川はピアノの横に立って話し始めた。
「みなさん、昼食を終えられたようなのでそろそろ音楽会を始めましょう。前座で私がショパンのノクターンをいくつか
 演奏させていただき、その後、本日の主役、小川深美さんのベートーヴェンとモーツァルトの演奏をお聴きいただきます。
 続いて大川アユミさんの、おお、これは...」
「どうしたんですか。相川さんらしくない」
「いや、演目を書いてもらったメモを今読んでいるのですが、大川さんがクライスレリアーナを演奏すると書いてあって
 とても楽しみで...。それに桃香ちゃんは、バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番からシャコンヌを
 演奏すると書いてあるし」
「おじさん、違うのよ。ただ独奏曲でいいのがなかったから、とりあえずこの曲を選んだだけ、でもこの曲を完璧に
 弾きこなせるようになるのが、今のところの私の目標なの」
「そうか、自分が打ち込める曲ができたんだね。期待しているよ。それから小川さんの奥さんは...。ブラームスの
 クラリネット・ソナタ第2番の第1楽章だけを。そして小川さんにはこの演奏会をのトリをするということで、「春の日の花と輝く」
 を最後に演奏していただきます。では、私の演奏をしばらくお聴きいただきましょう」
相川は椅子に腰掛けピアノに向かうと、最も有名なノクターン第2番変ホ長調Op.9-2の演奏を始めた。

小川は昨日の仕事が深夜に及び本日未明の帰宅となったため、相川の心地よいピアノ演奏を聴いているといつしか
ディケンズ先生が待つ夢の世界に引き込まれて行った。
「やあ、よく来たねといいたいところだが、何があってもここは相川さんの演奏を聴いてあげないと駄目だよ。
 だから少しアユミさんに...」
「えーーーーっ、起きます。起きます。だから、百獣の王を刺激しないで下さい」
小川は急いで腕の輪の中にうずめていた顔を上げ、何事もなかったかのように相川の演奏に耳をやったが、そうすると
対面のアユミと向かい合うことになった。アユミは2度と居眠りをしたら許さないわよということを伝えようとして
最初に掌を合わせて右頬の横に持って来た後、左の力こぶの上に右手を乗せて力強く左肘を折り曲げて、小川を威嚇した。